ムディトが紹介してくれた素晴らしい講話。。
関係性において、内側の自由を自由にさせてくれる。。
そして、日々の生活の中でも、私自身の道を意識出来る。。
更に、時間を共有する家族や旅の仲間を尊重も出来る。。
感謝。。。
<OSHOの講話より>
質問:OSHO、私達はみな、独りで生まれ独りで死に、しかも独り(アロンネス)であることが私達の実存の状態なのでしたら、コミューンの働きとは何でしょうか?
コミューンの働きとは、まさにその為のものだ。あなたに自分の絶対的な独り(アロンネス)であることを気づかせる為のものだ。
家族はそれを許さない。家族はあなたに自分には母があり、父があり、夫があり、兄弟があり、姉妹がある・・・独りではないのだという誤った考えを与える。
社会はあなたに、自分はロータリー・クラブやライオンズ・クラブの会員であり、この教会やあの寺院に属し、こちらの集団やあちらの集団に属しているのだから、自分は独りではないのだという考えを与える。
社会はあなたに交り合う為のあらゆる類(たぐい)の雑踏を与える。あなたは共和主義者だ、あなたは民主主義者だ、自由主義者だ・・・あなたは独りではない。全ての共和主義者があなたと共にある。
コミューンの機能は、基本的にこれら全ての虚構を破壊することにある。誰もあなたと共にはいない。あなたは独りだ。そしてあなたはこの独り(アロンネス)がとても貴重なものであり、見失ってはいけないものだということを理解しなければならない。
それはあなたが関係を持てないということではない。それはあなたが関係を信じていないということを意味しているだけだ。この2つの違いを見ようとしてごらん。
関わることは流れる川だ。あなたは関わり合える。あなたが独りだからこそ、あなたは関わり合えるのだ。
あなたは独りの個だ。あなたの側からも関係を持つことが出来る誰かがいる。そしてあなたは自分の独り在ること(アロンネス)を理解している相手とだけ関係出来る。さもなければあなたは関係出来ない。
もしあなたが自分のアロンネスを知っていて、しかも自分のアロンネスを知らない女の人と恋に落ちたとしたら、その恋はどこにも向かわない。あなたに想像出来るよりもずっと早くそれは終わってしまう。なぜなら、その女の人は関係を求めているからだ。
孤独(ロンリー)な人は関係を求めている。「隙間を埋めてください。私は孤独です。私の実存の一部になってください」・・・だが独り(アローン)である人は、自分が誰かの隙間を埋められないだけでなく、自分の隙間を埋められる者もいないことを知っている。
あなた方は出会うことは出来る。だがあなた方は2つのアロンネスのままだ。そして2つのアロンネスが出会えるというのは、2人の個人が出会えるというのは美しいことだ。
だがこの出会いを固い、固定したものにすることは出来ない。それを関係に引き下げることは出来ない。それは関係することにとどまる。
それはいつも変化し続ける流動、動きのままだ。相手は変化し続け、あなたも変化し続けるからだ。あなたは静止していない、が、それこそ人々が期待することだ。
2人の人が結婚する時、2人共ある特定のイメージと結婚している。そしてそれは明日になれば変化するものだ。あなたの結婚した女の人は、明日はもう同じ人ではない。彼女は生きている、彼女は成長している、彼女は動いている。明日は明日だ。
だがもしあなたが彼女に、ここで行き詰ったままでいることを望むなら、結婚証明書にサインをしたその瞬間にあなたは時計を止めようとしていることになる。だがたとえあなたが時計を止めようと、時間は・・・あなたの時計が時を動かしている訳ではないのだ。
2人共イメージを抱いている、マインドの中で行き詰っている。そして彼らはあなたにそのイメージを満たし続けて欲しいと思う。もしあなたがどこかでそのイメージから外れたら、あなたは裏切り、欺いていることになる。
誰にもそんなことは出来ない。それは不可能だ、それは自然に反している。
コミューンの機能とは、どんな関係性もなしに共にいられる機会をあなたに与えることにある。それはあなたに、束縛されることなく人々と関わり合える機会を与える。
それはあなたに何の取り引きもなく、何の重荷もなく、何の拘束もなしに他人(ひと)を知り、他人を感じられる機会を与える。あなたはあなたのまま、他人は他人のままだ。
もし私達が今日出会えるのならそれはよいことだ。共に在ることは歓びだ。だがもしそれが明日は起こらないとしても、こぼれてしまったミルクのことでいつまでも泣いている必要はない。それは的はずれだ。
多分、この出会いは今回かぎりのものだったのだろう。あなたは見知らぬ人にとどまり、相手も見知らぬ人にとどまる。そしてあなた方は互いを知人にまで引き下げたりはしない。この「見知らぬこと」は絶対的だ、破壊され得ぬものだ。
だからこのコミューンは、もうひとつの社会ではない。それはあなた方に社会やクラブや集団や党派を提供しているのではない。違う。それはただ単にあなた方に、これら全ての人々もあなたと全く同じように孤独なのだというスペースと、ある理解を用意しているのだ。
だが、それを満たそうとしてはいけない。もしあなたがそれを満たそうとしたなら、あなたは何か自然に反したことをしようとしている。そしてあなたは惨めになるだろう。それゆえに「孤独(ロンリネス)」という観点で考えないことだ。独り在ること(アロンネス)という観点で考えた方がよい。
そして独りあることはとても美しい、不可侵だ。誰ひとりあなたを踏みにじる者はいない。あなたはあなた自身であるべく残される。そして、あなたは他人をその人達自身であるべく置いておく。そうだ、ほんの時たま、あなた方は出会う・・・。
インドは今世紀に、数人の偉大な天才を生み出した。その1人はラヴィンドラナート・タゴールだ。私は彼の小説のひとつを愛している。「最後の詩」がその小説の名だ。
2人の人物が登場する。1人は若い男、詩人で哲学者だ・・・彼はラヴィンドラナートの言いたいことを実際に口にする。彼はラヴィンドラナートの代理人だ・・・もう1人は関係を求めている女性だ。彼女は絶え間なく結婚のことで男を悩ませる。
そして特にインドでは、男と女が一緒に歩いているのを見られただけで、スキャンダルには充分なのだ。彼らは何をしていたのでもない。ただ一緒に歩いただけ・・・それだけで充分なスキャンダルだ。町中が大騒ぎになる。
そしてどこからともなく様々な噂話が湧き出して来る。そしてもちろん、その女性の方がより苦しむ。というのも、どこへ行っても人々が彼女のことを指差し始めるからだ。それで彼女は必死だった。
彼女は言っていた。「なぜあなたは延期し続けるの?あなたは私を愛しているわ。私と一緒にいたいのよ。もしあなたが私を愛していないのなら、私はあなたを無理強いしたりはしないわ」
すると若者は言う。「僕は君を愛している。だから君と結婚しようとしないのだ」
さあ、これはこの女性にとってはとても難しいことだ。もし彼女が私のコミューンから来ているのだったら、彼女は理解していただろう。
だがそれにしても、これは何という言い方だろうか?・・・「君を愛しているから結婚出来ないのだ」とは。だが彼女はいつまでも止めない。
そこで彼は言う。「ひとつの条件の許でだったら、君と結婚しよう」・・・彼らは湖の岸辺に坐っている。彼は言う。
「僕は湖のこちら側に家を作る。そして君はこの湖の向こう側に家を作る。時たま、僕達は散歩の時に会うかもしれない。時たま、多分僕が君のドアをノックする、あるいは君が僕のドアをノックするかもしれない。時たま、僕はボートに乗り、そして君もボートに乗り、湖の真ん中で出会う。
だが、いつもそれは何の約束もなしにでなければいけない。それはデートであってはいけない。僕は自分が行くことを前もって知らせたりしないし、君が来る時も前もって知らせてはいけない。この条件でだったら・・・」
「何日間か僕達は出会うことが出来ないかもしれない。君は決して『どこへ行ってたの?』とは聞かないし、僕も『どこにいたんだい?』と聞くことは決してない。僕達は決して互いの自由を侵したりはしない。僕達は今そうであるように、見知らぬ他人のままでいるのだ」
女は言った。「では結婚の目的とは何なの?」当然ながら、彼女には結婚の目的が何であるのか理解出来ない。
結婚の目的とは、互いの頭を24時間占有し合うということだ。結婚の目的とは、愛の名の許に互いを殺し合うことだ。小言を言い、悩ませ、争うことだ。
この男は全く正しい提案をしている。それを大いなる歓びのままにしておこうと。ふいに湖であなたと出会う。予期してはいなかった・・・何の予期もなしに、湖の岸辺の茂みの中であなたを見つける。
まさにその予期せざる瞬間の思いが、関わるということだ。そこには関係はない。彼には「今夜必ず来てくれ。君は僕の妻なのだから。でなければ裁判所に行くよ」などという伝言は送れない。
が、実際は、夫は妻に「別の部屋で寝てくれ」とは言えない。それだけで充分にもめ事の種になる。妻は夫に「私のベッドには寝ないでちょうだい」とは言えない。それだけで充分なもめ事だ。
なぜなら私達は完全に、ある単純なことを忘れてしまっているからだ。それは私達が独りである、ということだ。そして私達は出来る限りそれを忘れようとしている。その考え自体が落とされねばならないのだ。
それは自然な現象だ。それについては何も苦痛はない。あなたがそれを知る時、それは最大の至福だ。
コミューンの機能とは、あなたにそのスペース(空間)を与えること、その理解を与えること、独り在ること(アロンネス)の感覚を与えること、関係性に入り込むことなく関わる、という経験を与えることだ。
The Rajneesh Bible Vol.2、#3(1984年12月3日の講話)
ラジニーシ・ニューズレター日本語版、70号(1985年2月25日発行)より