カテゴリー別アーカイブ: OSHO講話

OSHOタントラについて

12月5日(土)の大阪のタントラでは、タントラの美しいエネルギーの流れの中で、
身体とハートの感覚をさらに広げるかのように、
「タントラのマスターであるシヴァ神のマントラ」と
「日本の禅マスターである白隠のマントラ」等をシールのギターと共に皆で奏でます。。
特に白隠のマントラは、
この日のテーマである”Back to the BODY”にも繋がります。。
タントラは、いつも身体から始まる。
身体無くしては、宇宙の真理との繋がりも根無し草も同然な状態となります。
1日の流れの中でのほんの少しの時間ですが、お楽しみに♡
白隠について、ちょっと知りたい方のために、宝徳寺さんが作られている、白隠禅師の「坐禅和讃」のページの紹介〜☆
この中の、
『当処即ち蓮華国 此の身即ち仏なり』
この意味は、『ここが浄土で この身がそのまま仏なのである。』
と書いてありますが、OSHOの瞑想の中で良くいわれる『今ここ』の全てを表した一文だと思います。
この感覚を歌の中で味わいましょう。
自然に内側の静けさがやって来る体験となるでしょう。。
そして、さらにOSHOの素敵な白隠についての講話もシールがシェアしてくれました。
このOSHOのバースデイでのOSHOのサニヤシンに向けての講話。。。
シールが作ってくれた動画は、OSHOが白隠について話す講話の始まりの部分ですが、サニヤシンなら、かなり泣けます。。
そして、この動画を流していたら、これぞ私の好きなOSHOの世界!そしてタントラの世界だと感じる動画が流れて来たのでこちらのシェア〜☆

サマサーティSAMMASATI☆OSHOの講話

今年のゴパルワークは、サマサーティSAMMASATI

以下、和尚が、公衆前で最後にした講話です。和尚の願いで、この2日間のグループが、出来ました。

SAMMASATI :THE LAST DISCOURSE

The Zen Manifest:Freedom from oneselfより
サマサーティ・最後の講話

質問;愛する OSHO、

エネルギーが内側に向かって行くとき、それは思考になり、気分になり、感情になります。そしてエネルギーが外に向かって行けば、それは生き物や自然との関わり合いになります。けれどもエネルギーがもう内側にも外側にも向かわなくなれば、それはただそこに息づき、振動しているだけです。その時それは存在とひとつに、全体とひとつになっています。これが坐禅なのですか?

OSHO; その通りだ。エネルギーがただそこにあるだけのとき――どこにも向かわず、その源泉においてただ息づき、そこで光を放射し、蓮の花のように花開き、外側に出ても行かなければ、内側にも入って行かないとき――それはただいまここにある。

 内側に入りなさいと言うとき、私が言っているのは、頭の中に入って行きつづけてはいけないということだ。

 社会は全部、あなたたちのエネルギーを頭の中に注ぐように強いる。全教育はいかにしてエネルギーを頭の中だけで脈動させるかという――どうやれば大数学者になれるか、どうすれば偉い医者になれるか――という基本的技術からなっている。この世の教育はすべて、エネルギーを頭に持っていくということからなっている。

 禅はあなたたちに頭から出てくるようにと、そしてその源泉に――世界中の教育制度がそこからエネルギーを引き出し、頭に注ぎこませ、それを思考に変え、イメージに変え、考えることを生み出しているその源泉に――向かうようにと求める。思考には思考の役割がある。禅が頭の中のエネルギーの役割について知らないというのではないが、そのエネルギーをすべて頭の中で使ってしまえば、人はけして自分の永遠性に気づくことはなくなる。非常に偉い思想家や哲学者にはなるだろうが、〈生〉が何であるかを自分の経験として知ることはけしてないだろう。自分の経験として全体とひとつであるということがどういうことかを知ることはけっしてなくなる。

 エネルギーがただ中心で鼓動しているだけのとき‥‥。それがどちらにも向かわず、頭にも向かわずハートにも向かわず、それが、ハートがそこからそのエネルギーをもらう、頭がそこからそのエネルギーをもらうまさにその源泉で‥‥その源泉そのもののなかで鼓動しているとき、それこそがまさに坐禅の意味だ。

 坐禅とは、どちらにも向かうことなくただ源 において坐っているということだ。

ある途方もない力が湧き起こる。光と愛へのエネルギーの変容、より大いなる生への、慈悲への、創造性へのエネルギーの変容が。それはさまざまな形を取りうるが、まず人は源泉にいることを学ばなければならない。そうすればその源が、あなたの潜在能力がどこにあるかを決めることになる。あなたは源でくつろいでいればいい。そうすればそれがあなたの潜在能力そのものにあなたを連れて行ってくれる。永久に考えることを止めなければならないというのではない。ただ人は生き生きと気づきながら、しかも源に帰っていくことができなくてはならないということだ。頭が必要なときには、エネルギーを頭に移動させればいいし、愛が必要なときには、そのエネルギーをハートに移せばいい。

 だが二四時間考えている必要はない。考えていないときには、自分の中心に戻ってくつろがなければならない――そのことが禅の人を絶えず満足させ、生き生きと気づかせ、喜びにあふれさせているのだ。ある至福が彼を取りまいている。それは行為ではなく、ただ放射している。

 坐禅こそが禅の戦略だ。文字通りの意味はただ坐っているということだ。どこに坐っているのか? 源泉そのもののなかに坐っている。そしてたまには、中心で坐りつづけていたら、どんなマインドの活動でも何の障害もなくこなせるはずだ。あらゆるハートの活動を何の苦もなくこなすことができる。しかもなお、時間があるときにはいつでも、無用に考えることも無用に感じることもなく、ただ在ることができる。

 ただ在ることが坐禅だ。

 そしてもしただ在ることができれば――二四時間の中のほんの数分間だけでも――ブッダであることを自分に気づかせておくには充分だ。

OSHO

☆この講話以外のOSHOのサマサティの講話→OSHO JAPAN OSHO VIION 参照→http://www.osho-japan.com/vision/sammasati_last..html

☆大阪『Sammasati~Remenber Yourself ~サマサティ〜あなた自身を覚えていること~』インテンシブ・グループ☆
日程; 6月14日(土)&15日(日) 10:30~18:00     
会場; 大阪地下鉄谷町線・四天王寺前夕陽ヶ丘駅徒歩3分
参加費;40,000円(早割り5月末迄32,000円)

このグループやゴパルについては下記の記事も参照して下さい。

Sammasati~Remenber Yourself ~サマサティ〜あなた自身を覚えていること~http://wp.me/pW2RC-wo

サマサティ―あなた自身を覚えていること―12個の瞑想のエッセンスhttp://wp.me/pW2RC-ws

ゴパルのグループの特性とサマサティについてhttp://wp.me/pW2RC-wr

何故、今、サマサーティなのか?http://wp.me/pW2RC-wu

☆大阪ゴパルナイトイベント〜ディルルバ演奏と内側の静けさ〜☆
日程;  6月13日(金)19:00〜21:00
会場;  フリースペース『ドストカフェ』  
*dost cafe は、阪急神戸線芦屋川駅すぐ(徒歩1分) 
トルコ料理の隠れ家サクルエブの2階です。 
兵庫県芦屋市西山町1-2 トルコ料理サクルエブ2F 
(大阪・神戸から20分。JR芦屋、阪神芦屋駅より徒歩20分) 
参加費;  2,500円 (予約なしの参加も大歓迎!!) 
このイベントの詳しい案内→http://wp.me/pW2RC-x0

☆ゴパル大阪個人セッション*今回のセッション枠は数が少ないので、お申し込みはお早めにお願いします。 
日程;13日(金)16日(月) 
セッション枠; 
13日(金)①10:30②12:00③14:00 
16日(月)①10:30②12:00③14:00④15:30⑤17:00⑥18:30 

会場;ヒーリングルーム~Rosa(ロウザ)~地下鉄・JR新大阪駅東口から徒歩8分程度。阪急京都線「崇禅寺駅」徒歩6分程度。 

セッション料金;18,000円(通訳2,000円別途) 
*シリーズセッション  
2回連続 32,000円(通訳別途) 
3回連続 45,000円(通訳別途*上記日程以外の時間を前後の日程で1枠確保) 
*過去トレーニング参加者は上記より千円引きです。 

個人セッションについて→ゴパルのセッションが効く理由は?http://wp.me/pW2RC-wt

☆お問い合わせ&お申し込み☆

ディヤニ;dhyani29☆gmail.com(☆は半角@に変換して下さい)

 

ゴパル個人セッション in OSAKA

憶えておくがいい。易しいことが、正しいことだ。

瞑想が根づいてゆくにつれて、マインドは沈静し、エゴは消滅する。あなたはそこにいるが、「私が」という感覚はない。その時、扉は開かれる。愛に溢れた期待の気持ちと、大いなる瞬間を、ハートに出迎える気持ちをもって、待つがいい・・・全ての人々の人生にとって、最大の瞬間・・・光明・・・が訪れる。

光明は、やって来る。必ずやって来る。光明は、一瞬たりとも遅れたことがない。正しくチューニング(同調)すれば、それは突然、内側で爆発して、あなたを変容する。

古い人物としてのあなたは死滅し、新しい人物がやって来る。 OSHO***********************************OSHO:New Dawn より抜粋

 
ゴパルと共にただそこにいるだけで、いつの間にかとても安らいだサイレンスの中に自分がいて、丹田の辺りがとても温かくなっている事に驚きます。
 
そんなゴパルの個人セッションは、色んな事が易しくなる事は勿論、その変化する様子が本当に美しい。
まるでディルルバの音色の様な時間です。。。
 
是非、ゴパルのサイレンスと共に自分自身の為だけに過ごしてみて下さい。
ゴパルの個人セションは、明確な自分の中にあるイシューを持って来ても、特に問題を思うものが無くても、どちらでも受ける事が出来ます。
 

★ゴパル個人セッション★
ゴパルマジックと名付けられたこのセッション、深いところを癒してくれます!
平日ですので、会社帰りの夜19時からの枠も作りました。

ぜひ、この機会にご体験ください。

毎回各地で非常に人気がある個人セッションなので、お申し込みはお早めにお願いします。日時;11月11日(月)~15日(金)(11日は④~⑥、14日は①〜④のみ)

    ①10:00 ②11:30 ③14:00 ④15:30 ⑤17:00 ⑥19:00
会場;JR新大阪駅下車・徒歩2分
*予約された方にお知らせします。料金;18,000円(別途通訳2,000円)

シリーズセッション;2回目16,000円 3回目14,000円(別途通訳2,000円)

*以下にご注意下さいね。
●ご予約の時間に遅れた場合は、セッション時間が短くなる場合があります。
●キャンセルポリシー  
入金後の返金は一切受け付けておりません。また、入金がお済みでない場合でも3日前までは、30%、前日は50%、当日は、100%のキャンセルチャージとなりますのでご注意下さいね。
 
☆☆個人セッション明けの11月16日(土)17日(日)のヴィパッサナリトリート2DAYSも引き続き参加者募集中です〜自分の為の歌をゴパルに選んで欲しい人も個人セッションお勧めです(早割10月25日まで)
 
☆☆申し込み&お問い合わせ
ディヤニ ; dhyani29☆gmail.com (☆は半角@に変換して下さい)
*10月26日〜11月3日の間のお申し込みは
まてぃ ; 090-2478-0353
mati-café@mpd.biglobe.ne.jp

●ゴパル プロフィール:
彼は30年以上にわたって、瞑想と催眠(ヒプノシス)を教えてきました。ビジネス・マネージメント・コンサルティングとカウンセリング心理学の学歴の他に、催眠セラピスト、そしてトラウマ・ヒーリング・セラピストの資格を持ち、1976年以来、インドにあるインターナショナル・マルチバーシティーで働いています。そこで、瞑想アカデミーのディレクターを務め、瞑想カウンセリング・トレーニング、ヴィパサナ瞑想や座禅など伝統的な瞑想のリトリートを行ってきました。
西洋の社会学的研究と東洋の瞑想の智恵を組み合わせて、ゴパルはくつろぎと励まし、遊び心に溢れた雰囲気を作って、世界中の彼のワークショップ参加者が容易に学び、自分自身の中へと深く入って行ける様にします。

 
LOVE  JOY  DHYANI
 

サニヤスを受けただけでは奇跡は起こらない;OSHO講話

ムディトの日記から転載させてもらいました。。

一般の資格重視の社会からは理解出来ないかもしれないけれど、私達がOSHOの瞑想を続ける理由。。。

だけど一旦この世界の味わいを知ったなら、日常の外の世界で様々なことが起こったとしても、内側では信頼がただそこにはあるだけ。。そして、内側から沸き起こるものに、ただ従って行くだけ。。。

**********************************

日本語版OSHOタイムス、44号(1992年10月1日発行)の記事より

※長年にわたってOSHOは、別々の個人に様々な方法で「究極の変容は、弟子が自分の道に関して断固としており、全面的で、全身全霊であって初めて起こる」ということを再確認し続けて来た。

たとえば何人かのこれからサニヤシンになろうとする人が、OSHOからイニシエーションを受けたがっていて、まだ他のマスター達に深く惹かれていた時、彼は必ず、まずその古いマスターの許に戻ってそのことを終え、全面的に彼の許に来られるようにしなさいと強く勧めた。

「私はリー・ロゾウィックをよく知っているが、彼は厳格でもなければ光明を得てもいない」と、OSHOはHari Om Tat Sat の中で、サニヤスを取ったばかりで、しかし元のアメリカ人のマスター、リー・ロゾウィックにまだ愛着を感じているひとりの弟子に言っている。

しかもあなたはアメリカで、彼の許に6年も留まっていた。ということは、あなたには知性もないということだ。もしあなたが本当にマスターの許にあったのなら、ここに来る必要もなかっただろう。あなたの最奥の存在は満たされており、満足し、祝福されていたはずだ。

もしあなたがマスターの許にいたのなら、その人を見捨てることなどほとんど不可能だ。あなたの愛がそれを妨げるだろう。あなたの信頼が、あなたと全世界の間に立ちふさがるヒマラヤになるだろう。あなたのマスターが、あなたの全宇宙だ。

そして「今、プーナに来てから1週間経って、私の中にしつこく迫るようなある感じが起こって来ました。私は本当にサニヤスを取ったのだろうか?そして、あなたは本当に私のマスターなのだろうか?」と、あなたが尋ねているのは不思議だ。

リー・ロゾウィックはどうしたのかね?6年間もいたのに、なおあなたは彼の許に帰りたがっている。その理由は明らかだ。それはあなたが彼の中にマスターを発見したということではなく、彼の中に自分のエゴに対する承認を見つけたということだ。

ここでは、あなたのエゴは日毎に破壊されていくことになる。あなたが自らの存在のエッセンスだけを残して、完全に消えてしまわない限り、あなたはサニヤシンではない。

あなたのような人が6,7日経ってサニヤスを受けた時、どんなことが起こるだろうか?そういう人のマインドの中で何が続くだろう?そういう人はサニヤスを受ければ、自分に何か奇跡が起こると考えている。それは完全に間違っている。

あなたが受けたこのサニヤスは、いかなる奇跡も呼び起こさない。これはただ求道者のコミューンの中に入ること、自分を手の届くものにすること、内側の人間になって、ただの傍観者ではなくなることだ。

それから一歩一歩、愛の道を、信頼の道を学びなさい。それから一歩一歩、自分自身の存在の中に入っていく方法を学びなさい。あなたが自分の中心に入る日が、真のサニヤスの日になる。これはほんの形式に過ぎない。

真のサニヤシン、自分自身にたどり着いた真の存在には、質問は起こらない。「そして、あなたは本当に私のマスターなのでしょうか?」などと。誰が本当に自分のマスターであるかどうかを見つけ出す方法は、ひとつしかない。

もしその人の臨在の許で、その人の求道者達の宇宙の中で、もしその人の探求者達のキャラバンの中で、突然自分自身に突き当たり、それまで一度も経験したことのない歓喜を見出し、夢にも現れたことのないような祝福を見出したなら、その経験の後ではもう、あなたの中に疑問は起こらない。

それこそが決定要因だ。自分の中に疑問が起こらないということが。あらゆる質問はただ落ちる。あたかも秋に樹々から葉が落ちるようなものだ。

この質問が消えるという、そしてそれと共に想念とマインドが消えるという体験の中で初めて、あなたはその答えを得る。自分は真のマスターを見つけたと。

その前に決めることは出来ない。これは市場ではないからだ。誰かがその扉に「私は真のマスターだ」と書いてあるような訳にはいかないからだ。

あなたは忍耐と待つことを学ばなければならない。誰にも決して分からない。それは今日にも起こり得るし、何年もかかるかもしれない。全てはあなた次第だ。マスターはただ、ある微妙な雰囲気を創るだけだ。

その雰囲気はここにある。もしあなたがそれに同調することが出来たら、あなたはサニヤシンだ。

そしてもしあなたがゆっくり解体して、ここで起こっているダンスの、祝祭の、瞑想の、歓喜の一部になることが出来たら、突然、あなたは真のマスターの間近にいる自分に気づくことになる。

もしそれが起こらないなら、それには2つの理由があり得る。そのマスターが本物でないか、あるいは弟子であることが本物でないかだ。マスターが本物でないという考えに飛びつくよりは、ます自分の弟子であることの方を調べてみるといい。

サニヤシンになることで、あなたは何をしたのか?どんな変化があなたに起こったのか?あなたはこの運動にどんな風に深く入ったか、自分としてはどんな風に中に入ったのか、あなたの生活様式にどんな変化が起こったのか?

何もかもあなた次第だ。あなたにサニヤスを与えるということは、ただ私達があなたを受け容れるという、私達の扉はあなたに対して開いているということに過ぎない。それ以上ではない。

今度、この寺院の中で起こることは、あなた次第なのだ・・・あなたの知性、あなたの統合性、あなたの誠実さ、あなたの真理に対する真摯な探求次第だ。

そしてあなたが6日間で、瞑想がどこにも導かないことを理解したとは、私には思えない。あなたが私という実在の臨在に触れたとは思えない。

だが私はあなたに提案しよう。もしかしたら、あなたはリー・ロゾウィックの許に戻るべきかもしれない。というのも私は知性のない、忍耐心のない、急いでいる人々の集まりには全く何の興味も持っていないからだ。

あなたは帰って来るだろう・・・それについては私は確信している。だが今回はあなたは戻りなさい。まずリー・ロゾウィックとのことを済ませなさい。それがあなたにしつこく迫って来るものだ。

もしかしたら自分は正しいマスターの許を離れて、ここでおかしな世界に入ってしまったのではないか、とあなたは考えている。一度帰ってみてはどうかね?

私は決して誰にも、中途半端にここにいて貰いたくはない。あなたはここにいるか、あるいはここにいないかだ。その他の選択はない。だから、じっくり考えたらいい・・・。

そしてもし来たくなったら、今度は全身でやって来なさい。あなたの全面性が尊敬され、愛されることになる。

そしてあなたの全面性だけが、あなたにここにいるマスターを見つけさせることが出来る。

日本語版OSHOタイムス、44号(1992年10月1日発行)より

この覚醒を深めなさい。。。OSHO講話☆

今日、6月の無極功のクラスの事を考えていたら、シャンタンがOSHOの講話をシェアしてくれた。そして、私が6月のクラスでチューニングしたい事ととてもシンクロしていたので、ここにもシェアさせてもらいました。

無極功を日々の中で実践する中で、いつも気付いてこの覚醒へのサポートとしてもこのOSHOの講話は大切だと実感します。
そしたら、先のブログに掲載した、Shizukaさんからの無極功のシェア。これを合わせて読んで頂きたい!
この繋がり、友人からの情報が、子育てや仕事しながらの今の私をサポートしてくれている事に感謝!
***************************************

覚醒は行為ではない。 行為への耽溺は、覚醒から逃げることに他ならない。

肉体、想念、感情には、毎日、多くの変化が起こらなければならない。

毎日、多くのものが変化してゆく。

そこで、自然はあなたを無意識にさせるというやり方をとる。

意識を保ったままでは中心に長く留まっていられないからだ。

周辺にいないように、周辺に向かって走ってゆかないように、

あなたは無意識のなかに投げ込まれる。

眠りにつき、無意識になっているので、あなたは中心にいて、実存に落ち着いている。

だが、目覚めていても、あなたは様々な変化を通り抜ける。

言うなれば、自動車のギアを変えるようなものだ。

ごくわずかのあいだ、あなたはギアをニュートラルに入れる。

ギアを変えるときには、かならずニュートラルを通る。

ニュートラルとは「ノー・ギア」という意味だ。

ローからセカンドに入れる場合、ギアを直接変えることはできない。

変えるにはノー・ギアの状態を通過しなければならない。

そうして初めてギアを変えることができる。

熟練すればするほど、時間がかからなくなる。

実際、熟練したドライバーは、ギアを変えるたびに

ニュートラルを通過していることに気づかなくなる。

それは素早く変わるので、いちいちそれに気づいていなくてもよい。

運転の練習をしている者しか気づかない。

初心者以外は誰も気づかない。

運転の練習をしているとき、いつも厄介なのはニュートラル・ギアだ。

ひとつの行為から別の行為に移るとき、

あなたはかならずニュートラルの状態、中心に戻ってくる。

それに醒めているがいい。

誰かがあなたを侮辱した・・さあ、あなたは変化する。

同じままではいられない。周辺は変わらざるをえない。

同じ顔をしてはいられない。

あなたは顔をそっくり変えなければならない。

さあ、内側で何が起こっているか醒めていなさい。

あなたはまず中心に行き、そしてまた周辺に戻って来なければならない。

そうして初めてあなたは顔を変えることができる。

だから、もし誰かに侮辱されたら、内側で瞑想し、なかに入ってゆきなさい。

相手は変化のきっかけを与えてくれたのだ。

タントラは、この意識が変化してゆく状態を探求者に気づかせるために麻薬を使った。

彼らは、あなたにある種の麻薬を与えつづける。

そして師は「間隙に醒めていなさい」と言う。

あなたはその瞬間までは気づいていたが、今や意識を失いつつある。

その瞬間・・意識が無意識に変わる瞬間に醒めていなければならない。

人はいつも変化している。

こういった変化の瞬間に気づくと、人は中心を自覚するようになる。

禅師はあなたを窓から放り出し、背後から叫ぶ。

「醒めていろ!」あなたは窓から放り出され、中間にいる。

あなたは窓を飛び越して、地面にぶつかる寸前だ。

師は「醒めていろ!」と叫ぶ。

地面に落ちる頃には、あなたの顔つきはすっかり変わっているだろう。

今や状況がまったく変わってしまっている。

あなたは何か形而上学的なことを尋ねるためにやって来たのだが、

師はまったく非形而上学的な行動をとった。

あなたは、神は存在するかどうかと尋ねていたのに、師はあなたを窓から放り出した。

人を窓から放り出すとは、見当違いもいいところだ。

だが、あなたがひとつの状態から別の状態へ、

ひとつの顔から別の顔へと変わるまさにその瞬間を見定めて、師は叫ぶ。

「醒めていろ!」

あなたが窓を飛び越してゆくとき、変化しつつあるのは肉体だけではない。

あなたの意識状態も変化を起こしつつある。

そして、師は意識が変化する瞬間を正確に知っている。

その瞬間を逃さずに師は叫ぶ。

「醒めていろ!」その瞬間に師を聴くことができたら、あなたは周辺から投げ出され、中心にいる。

変化する状況が少しでもあれば、かならず内側をのぞき込むよう心がけなさい。

旅をすべき距離はない。

周辺から中心へ、中心から周辺へのジャンプがあるだけだ。

その振る舞いは、電子の運動、あるいは夢とそっくりだ。

この覚醒を深めなさい。

あなたにできるのはそれだけだ。

それは消極的なプロセスだ。

覚醒はすることではないし、覚醒は行為ではないからだ。

自分の状態が変化しつつあるときは、いつも醒めているがいい。

そうすれば、行為は消える。

行為は、あなたが醒めているとかならず止まる。

あなたが醒めると、呼吸すらもが止まる。

私が短刀をあなたの喉元に突きつければ、呼吸さえもが止まる。

あなたの覚醒が高まるあまり、一切のものが止まる。

あなたは中心に投げ出されている。

覚醒は行為ではない。

実際、行為への耽溺は、覚醒から逃げることに他ならない。

そして、私たちはみな、耽溺してしまっている。

人はとにかく何かをせずにはいられない。

この耽溺があなたが周辺に留まるのを助けている。

油断なく醒めているために、あらゆる機会を使いなさい・・

あらゆる機会をだ。

そして、機会は毎日数限りなくある。

油断なく醒めていなさい。

そうすれば、あなたは周辺から中心へとジャンプするのを感じるだろう。

中心にいることはあなたにとってやさしいものになる。

あなたは家の外にいる。

外は暑くなっている。

ちょっと家のなかに入ってみるがいい!

家のなかに入りたくなったら、入ればいい。

外に出たくなったら、出ればいい。

何もむずかしくない。

周辺から中心への動きがまさにこのようになれば、

やがて、あなたは爆発する。

OSHO

フォト

osho

コミューンの働き:OSHO講話

ムディトが紹介してくれた素晴らしい講話。。

関係性において、内側の自由を自由にさせてくれる。。

そして、日々の生活の中でも、私自身の道を意識出来る。。

更に、時間を共有する家族や旅の仲間を尊重も出来る。。

感謝。。。

<OSHOの講話より>

質問:OSHO、私達はみな、独りで生まれ独りで死に、しかも独り(アロンネス)であることが私達の実存の状態なのでしたら、コミューンの働きとは何でしょうか?

コミューンの働きとは、まさにその為のものだ。あなたに自分の絶対的な独り(アロンネス)であることを気づかせる為のものだ。

家族はそれを許さない。家族はあなたに自分には母があり、父があり、夫があり、兄弟があり、姉妹がある・・・独りではないのだという誤った考えを与える。

社会はあなたに、自分はロータリー・クラブやライオンズ・クラブの会員であり、この教会やあの寺院に属し、こちらの集団やあちらの集団に属しているのだから、自分は独りではないのだという考えを与える。

社会はあなたに交り合う為のあらゆる類(たぐい)の雑踏を与える。あなたは共和主義者だ、あなたは民主主義者だ、自由主義者だ・・・あなたは独りではない。全ての共和主義者があなたと共にある。

コミューンの機能は、基本的にこれら全ての虚構を破壊することにある。誰もあなたと共にはいない。あなたは独りだ。そしてあなたはこの独り(アロンネス)がとても貴重なものであり、見失ってはいけないものだということを理解しなければならない。

それはあなたが関係を持てないということではない。それはあなたが関係を信じていないということを意味しているだけだ。この2つの違いを見ようとしてごらん。

関わることは流れる川だ。あなたは関わり合える。あなたが独りだからこそ、あなたは関わり合えるのだ。

あなたは独りの個だ。あなたの側からも関係を持つことが出来る誰かがいる。そしてあなたは自分の独り在ること(アロンネス)を理解している相手とだけ関係出来る。さもなければあなたは関係出来ない。

もしあなたが自分のアロンネスを知っていて、しかも自分のアロンネスを知らない女の人と恋に落ちたとしたら、その恋はどこにも向かわない。あなたに想像出来るよりもずっと早くそれは終わってしまう。なぜなら、その女の人は関係を求めているからだ。

孤独(ロンリー)な人は関係を求めている。「隙間を埋めてください。私は孤独です。私の実存の一部になってください」・・・だが独り(アローン)である人は、自分が誰かの隙間を埋められないだけでなく、自分の隙間を埋められる者もいないことを知っている。

あなた方は出会うことは出来る。だがあなた方は2つのアロンネスのままだ。そして2つのアロンネスが出会えるというのは、2人の個人が出会えるというのは美しいことだ。

だがこの出会いを固い、固定したものにすることは出来ない。それを関係に引き下げることは出来ない。それは関係することにとどまる。

それはいつも変化し続ける流動、動きのままだ。相手は変化し続け、あなたも変化し続けるからだ。あなたは静止していない、が、それこそ人々が期待することだ。

2人の人が結婚する時、2人共ある特定のイメージと結婚している。そしてそれは明日になれば変化するものだ。あなたの結婚した女の人は、明日はもう同じ人ではない。彼女は生きている、彼女は成長している、彼女は動いている。明日は明日だ。

だがもしあなたが彼女に、ここで行き詰ったままでいることを望むなら、結婚証明書にサインをしたその瞬間にあなたは時計を止めようとしていることになる。だがたとえあなたが時計を止めようと、時間は・・・あなたの時計が時を動かしている訳ではないのだ。

2人共イメージを抱いている、マインドの中で行き詰っている。そして彼らはあなたにそのイメージを満たし続けて欲しいと思う。もしあなたがどこかでそのイメージから外れたら、あなたは裏切り、欺いていることになる。

誰にもそんなことは出来ない。それは不可能だ、それは自然に反している。

コミューンの機能とは、どんな関係性もなしに共にいられる機会をあなたに与えることにある。それはあなたに、束縛されることなく人々と関わり合える機会を与える。

それはあなたに何の取り引きもなく、何の重荷もなく、何の拘束もなしに他人(ひと)を知り、他人を感じられる機会を与える。あなたはあなたのまま、他人は他人のままだ。

もし私達が今日出会えるのならそれはよいことだ。共に在ることは歓びだ。だがもしそれが明日は起こらないとしても、こぼれてしまったミルクのことでいつまでも泣いている必要はない。それは的はずれだ。

多分、この出会いは今回かぎりのものだったのだろう。あなたは見知らぬ人にとどまり、相手も見知らぬ人にとどまる。そしてあなた方は互いを知人にまで引き下げたりはしない。この「見知らぬこと」は絶対的だ、破壊され得ぬものだ。

だからこのコミューンは、もうひとつの社会ではない。それはあなた方に社会やクラブや集団や党派を提供しているのではない。違う。それはただ単にあなた方に、これら全ての人々もあなたと全く同じように孤独なのだというスペースと、ある理解を用意しているのだ。

だが、それを満たそうとしてはいけない。もしあなたがそれを満たそうとしたなら、あなたは何か自然に反したことをしようとしている。そしてあなたは惨めになるだろう。それゆえに「孤独(ロンリネス)」という観点で考えないことだ。独り在ること(アロンネス)という観点で考えた方がよい。

そして独りあることはとても美しい、不可侵だ。誰ひとりあなたを踏みにじる者はいない。あなたはあなた自身であるべく残される。そして、あなたは他人をその人達自身であるべく置いておく。そうだ、ほんの時たま、あなた方は出会う・・・。

インドは今世紀に、数人の偉大な天才を生み出した。その1人はラヴィンドラナート・タゴールだ。私は彼の小説のひとつを愛している。「最後の詩」がその小説の名だ。

2人の人物が登場する。1人は若い男、詩人で哲学者だ・・・彼はラヴィンドラナートの言いたいことを実際に口にする。彼はラヴィンドラナートの代理人だ・・・もう1人は関係を求めている女性だ。彼女は絶え間なく結婚のことで男を悩ませる。

そして特にインドでは、男と女が一緒に歩いているのを見られただけで、スキャンダルには充分なのだ。彼らは何をしていたのでもない。ただ一緒に歩いただけ・・・それだけで充分なスキャンダルだ。町中が大騒ぎになる。

そしてどこからともなく様々な噂話が湧き出して来る。そしてもちろん、その女性の方がより苦しむ。というのも、どこへ行っても人々が彼女のことを指差し始めるからだ。それで彼女は必死だった。

彼女は言っていた。「なぜあなたは延期し続けるの?あなたは私を愛しているわ。私と一緒にいたいのよ。もしあなたが私を愛していないのなら、私はあなたを無理強いしたりはしないわ」

すると若者は言う。「僕は君を愛している。だから君と結婚しようとしないのだ」
さあ、これはこの女性にとってはとても難しいことだ。もし彼女が私のコミューンから来ているのだったら、彼女は理解していただろう。

だがそれにしても、これは何という言い方だろうか?・・・「君を愛しているから結婚出来ないのだ」とは。だが彼女はいつまでも止めない。

そこで彼は言う。「ひとつの条件の許でだったら、君と結婚しよう」・・・彼らは湖の岸辺に坐っている。彼は言う。

「僕は湖のこちら側に家を作る。そして君はこの湖の向こう側に家を作る。時たま、僕達は散歩の時に会うかもしれない。時たま、多分僕が君のドアをノックする、あるいは君が僕のドアをノックするかもしれない。時たま、僕はボートに乗り、そして君もボートに乗り、湖の真ん中で出会う。

だが、いつもそれは何の約束もなしにでなければいけない。それはデートであってはいけない。僕は自分が行くことを前もって知らせたりしないし、君が来る時も前もって知らせてはいけない。この条件でだったら・・・」

「何日間か僕達は出会うことが出来ないかもしれない。君は決して『どこへ行ってたの?』とは聞かないし、僕も『どこにいたんだい?』と聞くことは決してない。僕達は決して互いの自由を侵したりはしない。僕達は今そうであるように、見知らぬ他人のままでいるのだ」

女は言った。「では結婚の目的とは何なの?」当然ながら、彼女には結婚の目的が何であるのか理解出来ない。

結婚の目的とは、互いの頭を24時間占有し合うということだ。結婚の目的とは、愛の名の許に互いを殺し合うことだ。小言を言い、悩ませ、争うことだ。

この男は全く正しい提案をしている。それを大いなる歓びのままにしておこうと。ふいに湖であなたと出会う。予期してはいなかった・・・何の予期もなしに、湖の岸辺の茂みの中であなたを見つける。

まさにその予期せざる瞬間の思いが、関わるということだ。そこには関係はない。彼には「今夜必ず来てくれ。君は僕の妻なのだから。でなければ裁判所に行くよ」などという伝言は送れない。

が、実際は、夫は妻に「別の部屋で寝てくれ」とは言えない。それだけで充分にもめ事の種になる。妻は夫に「私のベッドには寝ないでちょうだい」とは言えない。それだけで充分なもめ事だ。

なぜなら私達は完全に、ある単純なことを忘れてしまっているからだ。それは私達が独りである、ということだ。そして私達は出来る限りそれを忘れようとしている。その考え自体が落とされねばならないのだ。

それは自然な現象だ。それについては何も苦痛はない。あなたがそれを知る時、それは最大の至福だ。

コミューンの機能とは、あなたにそのスペース(空間)を与えること、その理解を与えること、独り在ること(アロンネス)の感覚を与えること、関係性に入り込むことなく関わる、という経験を与えることだ。

The Rajneesh Bible Vol.2、#3(1984年12月3日の講話)
ラジニーシ・ニューズレター日本語版、70号(1985年2月25日発行)より

母親になるということ :OSHO講話

ムディトからのシェアの転記です。

母親になるということ      <OSHOの講話より>

質問:母親になることについて話してください。

母親になることは、この世でもっとも偉大な責任のひとつだ。

実に多くの人々が精神分析医のカウチの上にいる状態だ。そして、実に多くの人々が精神病院に入っている。そして、実に多くの狂った人々が精神病院の外にいる。

もし、あなたが人類の神経症に深く入って行ったら、あなたはつねに母親を発見するだろう。なぜなら、とても多くの女性が母親になりたがるが、彼女達はいかにして母親になるかを知らないからだ。

ひとたび母親と子供の関係がおかしくなってしまうと、子供の一生は間違った方向に向かう。なぜなら、それは世界との子供の最初の接触、彼の最初の関係だからだ。

他のすべては皆それとつながって行く。そしてもし、その最初の一歩が間違って踏み出されると、生涯が台無しになる。

人は承知の上で母親になるべきだ。あなたは人類が受けることの出来る、もっとも偉大な責任のひとつを引き受けている。男性の方がその意味では少し自由だ。なぜなら、彼らは母親になることの責任を引き受けることが出来ないからだ。

女性にはより多くの責任がある。だから母親になるがいい。だが女だからといって、母親になるのは当たり前だと捉(とら)えてはいけない・・・それは誤った考えだ。

母性は偉大な芸術(アート)だ!あなたはそれを学ばなければならない。だからそれについて学び始めなさい!

2、3のことを私はあなたに言いたい。最初に、決して子供をあなたのものとして扱ってはいけない。決して子供を所有してはならない。子供はあなたを通してやって来るが、あなたのものではない。

神があなたを乗物として、媒体としてただ使っただけであり、子供はあなたの所有物ではない。愛しなさい。だが決して子供を所有してはならない。

もし母親が子供を所有し始めたら、その時には彼の生は破壊される。子供は囚人になり始める。あなたは彼の個性を壊し、彼を物に貶(おとし)めてしまっている。

物しか所有出来ない。家を所有することは出来る、車を所有することは出来る・・・人を所有することは決して出来ない。

だからこれが最初のレッスンだ・・・その為に用意を整えなさい。子供がやって来る前に、あなたは彼を独立した存在として迎えることが出来ているべきだ。彼自身の権利において、ひとりの人物として、単にあなたの子供としてではなく。

そして2つ目のことは、成人した人を扱うように子供を扱いなさい。決して子供を子供のように扱ってはならない。子供を深い尊敬をもって扱いなさい。

神はあなたを主人(ホスト)として選んだ。神は客(ゲスト)としてあなたの存在の中へ入って来た。子供はとても壊れやすく、無力だ。子供を尊敬することはとても難しい。

子供に屈辱を与えるのはとても簡単だ。屈辱はごく簡単に生じる。なぜなら、子供は無力で何も出来ないからだ。仕返しすることも、反抗することも出来ないからだ。

子供を成人として、そして偉大な尊敬をもって扱いなさい。ひとたびあなたが子供を尊敬するようになると、あなたは自分の考えを彼に押しつけようとしなくなる。

あなたはただ彼に自由を与える・・・世界を探検する為の自由だ。あなたは彼が世界を探検するにあたって、もっともっと力強くなるのを助ける。だが、決して彼に方向を与えたりしない。

あなたは彼にエネルギーを与える、あなたは彼に保護を与える、あなたは彼に安全を与える・・・彼が必要なすべてを・・・だが、あなたは彼が世界を探検する為に、あなたの元から遠く離れて行くのを助ける。

そしてもちろん、自由には間違いもまた含まれている。母親にとってそれを学ぶのはとても難しい。

あなたが子供に自由を与える時、それはよいことをするだけの自由ではないからだ。悪いことをする自由、間違う自由もまた必要だ。だから子供を注意深く、賢くあらしめなさい。

だが、彼にどんな戒律も決して与えてはならない・・・誰もそれらを守りはしない。が、人々は偽善者になる。

だから、もしあなたが本当に子供を愛するのなら、ひとつのことを覚えておかなければならない。絶対に、絶対にいかなる方法であれ、偽善者になるように彼を助けたり、強制したりしてはならない。

そして3つ目のこと・・・道徳に耳を傾けてはならない、宗教に耳を傾けてはならない、文化に耳を傾けてはならない・・・「自然」に耳を傾けなさい。

自然であれば何であろうと・・・たとえそれが、時々あなたにとってとても難しいとしても、あなたにとってはとても居心地が悪いとしてもだ・・・なぜなら、あなたは自然に従って育てられては来なかったからだ。

あなたの両親は、あなたを真の芸術、愛では育てなかった。それは偶発的なことに過ぎなかった。同じ間違いを繰り返してはいけない。何度もあなたはとても不安に感じるだろう・・・。

たとえば、幼い子供が自分の性器で遊び始める。母親の普通の傾向は、子供を止めることだ。なぜなら、彼女はこれはいけないことだと教えられて来たからだ。たとえ彼女が何も悪いことではないと感じるとしても、そこに誰かがいれば彼女は少しきまり悪く感じる。

きまり悪く感じなさい!それはあなたの問題だ。子供とは何の関係もない。きまり悪く感じなさい。たとえそれで、あなたが社会において尊敬を失うことになるとしても、失いなさい。

だが、決して子供の邪魔をしてはいけない。自然に自らの道を取らせなさい。自然が開いて見せようとしていることを、何であれ容易にする為にあなたはそこにいる。あなたは自然を監督するべきではない。あなたはただ助けとして、そこにいるべきだ。

だから、この3つのこと・・・そして、瞑想し始めなさい。子供が生まれる前に、あなたは出来る限り深く瞑想の中に入って行くべきだ。

子供があなたの子宮の中にいる時、あなたが何をしていようとも、すべて絶え間なく子供にヴァイブレーション(振動)として伝わる。

もしあなたが怒れば、あなたの胃は怒りで緊張している。子供はすぐにそれを感じる。悲しい時は、あなたの胃は悲しみの雰囲気を持っている。すぐに子供は活気なく落ち込んで行くのを感じる。子供は完全にあなた次第だ。あなたの気分がどうあろうと、それが子供の気分だ。

子供はまだ自立していない。あなたの風土が彼の風土だ。だから、もう争いはなしだ、もう怒りはなしだ。だからこそ、私は母になることは偉大な責任だと言っている。あなたは多くを犠牲にしなければならないだろう・・・。

もしまさに最初から、怒り、憎しみ、衝突が子供のマインドの中に入れば、その時には、あなたは彼の為に地獄を引き起こしている。彼は苦しむだろう。

そうであれば、子供を世界の中にもたらさない方がいい。なぜ子供を苦しみの中に連れて来るのか?世界は途方もなく苦しんでいる。そもそもこの世界の中に子供を産み落とすことは、とても危険なことだ。

しかし、それでもあなたがそうしたかったら、せめてこの世界において、まったく違う子供をもたらしなさい・・・惨めではなく、少なくとももう少し世界が祝うのを助ける子供を。

彼は世界の中に、もう少し祝祭をもたらすだろう・・・もう少し多くの笑いを、愛を、生を・・・

OSHO:God is Not for Sale、(1978)より     (「ニュー・ウーマン誕生」めるくまーる社)