コミューンの働き:OSHO講話

ムディトが紹介してくれた素晴らしい講話。。

関係性において、内側の自由を自由にさせてくれる。。

そして、日々の生活の中でも、私自身の道を意識出来る。。

更に、時間を共有する家族や旅の仲間を尊重も出来る。。

感謝。。。

<OSHOの講話より>

質問:OSHO、私達はみな、独りで生まれ独りで死に、しかも独り(アロンネス)であることが私達の実存の状態なのでしたら、コミューンの働きとは何でしょうか?

コミューンの働きとは、まさにその為のものだ。あなたに自分の絶対的な独り(アロンネス)であることを気づかせる為のものだ。

家族はそれを許さない。家族はあなたに自分には母があり、父があり、夫があり、兄弟があり、姉妹がある・・・独りではないのだという誤った考えを与える。

社会はあなたに、自分はロータリー・クラブやライオンズ・クラブの会員であり、この教会やあの寺院に属し、こちらの集団やあちらの集団に属しているのだから、自分は独りではないのだという考えを与える。

社会はあなたに交り合う為のあらゆる類(たぐい)の雑踏を与える。あなたは共和主義者だ、あなたは民主主義者だ、自由主義者だ・・・あなたは独りではない。全ての共和主義者があなたと共にある。

コミューンの機能は、基本的にこれら全ての虚構を破壊することにある。誰もあなたと共にはいない。あなたは独りだ。そしてあなたはこの独り(アロンネス)がとても貴重なものであり、見失ってはいけないものだということを理解しなければならない。

それはあなたが関係を持てないということではない。それはあなたが関係を信じていないということを意味しているだけだ。この2つの違いを見ようとしてごらん。

関わることは流れる川だ。あなたは関わり合える。あなたが独りだからこそ、あなたは関わり合えるのだ。

あなたは独りの個だ。あなたの側からも関係を持つことが出来る誰かがいる。そしてあなたは自分の独り在ること(アロンネス)を理解している相手とだけ関係出来る。さもなければあなたは関係出来ない。

もしあなたが自分のアロンネスを知っていて、しかも自分のアロンネスを知らない女の人と恋に落ちたとしたら、その恋はどこにも向かわない。あなたに想像出来るよりもずっと早くそれは終わってしまう。なぜなら、その女の人は関係を求めているからだ。

孤独(ロンリー)な人は関係を求めている。「隙間を埋めてください。私は孤独です。私の実存の一部になってください」・・・だが独り(アローン)である人は、自分が誰かの隙間を埋められないだけでなく、自分の隙間を埋められる者もいないことを知っている。

あなた方は出会うことは出来る。だがあなた方は2つのアロンネスのままだ。そして2つのアロンネスが出会えるというのは、2人の個人が出会えるというのは美しいことだ。

だがこの出会いを固い、固定したものにすることは出来ない。それを関係に引き下げることは出来ない。それは関係することにとどまる。

それはいつも変化し続ける流動、動きのままだ。相手は変化し続け、あなたも変化し続けるからだ。あなたは静止していない、が、それこそ人々が期待することだ。

2人の人が結婚する時、2人共ある特定のイメージと結婚している。そしてそれは明日になれば変化するものだ。あなたの結婚した女の人は、明日はもう同じ人ではない。彼女は生きている、彼女は成長している、彼女は動いている。明日は明日だ。

だがもしあなたが彼女に、ここで行き詰ったままでいることを望むなら、結婚証明書にサインをしたその瞬間にあなたは時計を止めようとしていることになる。だがたとえあなたが時計を止めようと、時間は・・・あなたの時計が時を動かしている訳ではないのだ。

2人共イメージを抱いている、マインドの中で行き詰っている。そして彼らはあなたにそのイメージを満たし続けて欲しいと思う。もしあなたがどこかでそのイメージから外れたら、あなたは裏切り、欺いていることになる。

誰にもそんなことは出来ない。それは不可能だ、それは自然に反している。

コミューンの機能とは、どんな関係性もなしに共にいられる機会をあなたに与えることにある。それはあなたに、束縛されることなく人々と関わり合える機会を与える。

それはあなたに何の取り引きもなく、何の重荷もなく、何の拘束もなしに他人(ひと)を知り、他人を感じられる機会を与える。あなたはあなたのまま、他人は他人のままだ。

もし私達が今日出会えるのならそれはよいことだ。共に在ることは歓びだ。だがもしそれが明日は起こらないとしても、こぼれてしまったミルクのことでいつまでも泣いている必要はない。それは的はずれだ。

多分、この出会いは今回かぎりのものだったのだろう。あなたは見知らぬ人にとどまり、相手も見知らぬ人にとどまる。そしてあなた方は互いを知人にまで引き下げたりはしない。この「見知らぬこと」は絶対的だ、破壊され得ぬものだ。

だからこのコミューンは、もうひとつの社会ではない。それはあなた方に社会やクラブや集団や党派を提供しているのではない。違う。それはただ単にあなた方に、これら全ての人々もあなたと全く同じように孤独なのだというスペースと、ある理解を用意しているのだ。

だが、それを満たそうとしてはいけない。もしあなたがそれを満たそうとしたなら、あなたは何か自然に反したことをしようとしている。そしてあなたは惨めになるだろう。それゆえに「孤独(ロンリネス)」という観点で考えないことだ。独り在ること(アロンネス)という観点で考えた方がよい。

そして独りあることはとても美しい、不可侵だ。誰ひとりあなたを踏みにじる者はいない。あなたはあなた自身であるべく残される。そして、あなたは他人をその人達自身であるべく置いておく。そうだ、ほんの時たま、あなた方は出会う・・・。

インドは今世紀に、数人の偉大な天才を生み出した。その1人はラヴィンドラナート・タゴールだ。私は彼の小説のひとつを愛している。「最後の詩」がその小説の名だ。

2人の人物が登場する。1人は若い男、詩人で哲学者だ・・・彼はラヴィンドラナートの言いたいことを実際に口にする。彼はラヴィンドラナートの代理人だ・・・もう1人は関係を求めている女性だ。彼女は絶え間なく結婚のことで男を悩ませる。

そして特にインドでは、男と女が一緒に歩いているのを見られただけで、スキャンダルには充分なのだ。彼らは何をしていたのでもない。ただ一緒に歩いただけ・・・それだけで充分なスキャンダルだ。町中が大騒ぎになる。

そしてどこからともなく様々な噂話が湧き出して来る。そしてもちろん、その女性の方がより苦しむ。というのも、どこへ行っても人々が彼女のことを指差し始めるからだ。それで彼女は必死だった。

彼女は言っていた。「なぜあなたは延期し続けるの?あなたは私を愛しているわ。私と一緒にいたいのよ。もしあなたが私を愛していないのなら、私はあなたを無理強いしたりはしないわ」

すると若者は言う。「僕は君を愛している。だから君と結婚しようとしないのだ」
さあ、これはこの女性にとってはとても難しいことだ。もし彼女が私のコミューンから来ているのだったら、彼女は理解していただろう。

だがそれにしても、これは何という言い方だろうか?・・・「君を愛しているから結婚出来ないのだ」とは。だが彼女はいつまでも止めない。

そこで彼は言う。「ひとつの条件の許でだったら、君と結婚しよう」・・・彼らは湖の岸辺に坐っている。彼は言う。

「僕は湖のこちら側に家を作る。そして君はこの湖の向こう側に家を作る。時たま、僕達は散歩の時に会うかもしれない。時たま、多分僕が君のドアをノックする、あるいは君が僕のドアをノックするかもしれない。時たま、僕はボートに乗り、そして君もボートに乗り、湖の真ん中で出会う。

だが、いつもそれは何の約束もなしにでなければいけない。それはデートであってはいけない。僕は自分が行くことを前もって知らせたりしないし、君が来る時も前もって知らせてはいけない。この条件でだったら・・・」

「何日間か僕達は出会うことが出来ないかもしれない。君は決して『どこへ行ってたの?』とは聞かないし、僕も『どこにいたんだい?』と聞くことは決してない。僕達は決して互いの自由を侵したりはしない。僕達は今そうであるように、見知らぬ他人のままでいるのだ」

女は言った。「では結婚の目的とは何なの?」当然ながら、彼女には結婚の目的が何であるのか理解出来ない。

結婚の目的とは、互いの頭を24時間占有し合うということだ。結婚の目的とは、愛の名の許に互いを殺し合うことだ。小言を言い、悩ませ、争うことだ。

この男は全く正しい提案をしている。それを大いなる歓びのままにしておこうと。ふいに湖であなたと出会う。予期してはいなかった・・・何の予期もなしに、湖の岸辺の茂みの中であなたを見つける。

まさにその予期せざる瞬間の思いが、関わるということだ。そこには関係はない。彼には「今夜必ず来てくれ。君は僕の妻なのだから。でなければ裁判所に行くよ」などという伝言は送れない。

が、実際は、夫は妻に「別の部屋で寝てくれ」とは言えない。それだけで充分にもめ事の種になる。妻は夫に「私のベッドには寝ないでちょうだい」とは言えない。それだけで充分なもめ事だ。

なぜなら私達は完全に、ある単純なことを忘れてしまっているからだ。それは私達が独りである、ということだ。そして私達は出来る限りそれを忘れようとしている。その考え自体が落とされねばならないのだ。

それは自然な現象だ。それについては何も苦痛はない。あなたがそれを知る時、それは最大の至福だ。

コミューンの機能とは、あなたにそのスペース(空間)を与えること、その理解を与えること、独り在ること(アロンネス)の感覚を与えること、関係性に入り込むことなく関わる、という経験を与えることだ。

The Rajneesh Bible Vol.2、#3(1984年12月3日の講話)
ラジニーシ・ニューズレター日本語版、70号(1985年2月25日発行)より

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お仕事始めました。

ここ何ヶ月か私の貯金で暮らしていたのですが、そんなに沢山貯金があるわけでもなく、もう結構ヤバい状態に。。。

それでも、全く新たな収入はやって来ないので、手っ取り早くお金になるナースの派遣会社に登録しました。

ちょっと諸事情が色々あってナオちゃんを直ぐに保育園に入れる事が出来ないので、単発のお仕事から始める事にしました。

ナースとしてバリバリに働いていた時期からは、ブランク12年。

どれにしようか選んでいたら、収入無い日が更に続くだけなので、経験は全く無いが特別養護老人ホームの募集と日にちが合ったのでエントリーしてみた。

私が出かけようとしたら、もう死にそうに泣きじゃくるナオちゃんに見送られ、4年弱ぶりの外でのお仕事。

行ってみると老人ホームでのデイケアサービスでのお仕事の様だった。

その仕事の内容的には、ブランクなんて全く関係なくやれる簡単な仕事で、これでお金もらって良い仕事だわ~って思う内容。

だけど、もうここでは働きたくないって正直思った。

何故って、働いている特に女性の職員の在り方が、サービス業独特の在り方だったから。。

と言うのは、お客(利用者と言うのだと思うが)の老人達がいる時と皆が帰った後と別人の様に嫌な感じの人に豹変していた。

何だか、一人「イライラ」してそれをちょっと人に吐き出してくる感じ。。

ここで何を思い出したかと言うと、以前にナースしか出来ない自分が小さく感じて、派遣のウエイトレスをした事があった。

そこでは、大阪の有名な大きなホテルでのウエイトレスをする事もあったのだが、ここで満面の笑みでお客に微笑みかけているホテルスタッフの裏側をみる体験をした。

まず、着替える部屋では、高校生もかなりの割合でいたのだが、ほとんどのスタッフがバンバンタバコを吸いまくって煙でいっぱいの部屋に特に仕事終わりにはなっていた。

それよりも強烈だったのは、確か「どんでん」といって、パーティーが終わった後の片付けと次の日の会場準備をするのだが、そこでベテランっぽい女の子が、「キーキー」ヒステリーを起こしながら、皆を動かしていた。

私が特にそのヒステリーの被害にあった事は無いけど、客観的に見て「ホテルの準備のちょっとしたミスで人が命落とす訳でも無いのに、キーキー言いまくる必要はどこにあるのか?(病院でミスしたら人の命奪い兼ねないけど~)」って思って、かなり滑稽な風景に感じた。

そしてここでは、男のスタッフでもそんな感じになっていた。

更に怖い事に、私が1ヶ月ぐらい間が空いて同じ所に行ったら、その時キーキーベテランに言われていた高校生の女の子が、今度は新しく入ったトロトロしてる子達に、あの時のベテランスタッフの女の子と同じ様に「キーキー」言って指示をしていた。

何か、「DNAの悪の連鎖」を見ている様でちょっと恐い気がした。

このホテルでの経験と今回のケアセンターでの共通点!

それは、お客様には絶対に「そそう」をしてはいけないし、悪い印象を与えてはいけないと言うのがサービス業では命!

つまり、「お客様から苦情が出ないように振舞う事=自分の身を守る事」に命を懸けているのです。

ホテルもそうだけど、ケアセンターで家に帰った老人が家族にセンターの文句でも言われた日には、大問題や責任問題になりかねませんから。

なので、結果必要以上に緊張して働いて、自分を押し殺しても必要以上に客を持ち上げないといけないので、極度のストレスが溜まるのだと思いました。

で、そのストレスは、自分より更に弱い立場の者の所へ流れて行くのです。

これって、親が子供を虐待したり、世間の虐めなどの起こる原理と全く同じだよな~。

ケアセンターでも、めっちゃ私がその人から何かされた訳じゃないけど、「家に帰りたい、家に帰りたい」と言っている老人達がやって来て、そこで働いているスタッフは、ストレスを溜めると言うこの空間に、どこでも起こっている一般的な状況と分かっていても、やっぱ違和感を感じてしまったのです。

あっ、でも、来られていた老人利用者の方々は、全員優しくてとっても良い方ばかりでした。皆さん気さくにお話してくださったし。

こういった老人達が行く場所が必要な現実は分かる。

でも何か人の生き方としての不自然さの香りが、プンプン臭っている。。。。

どう生きるか、どう歳を取るか、若いうちから皆がしっかりと考えて、身体作りや生き方を選んで行かないとな~ってやっぱり思います。

90歳を過ぎても、自分の畑で作物を作って元気に楽しんでおられる方も良く出会います。

その様に歳を取りたいものです。

そしたら、今の老人医療の問題や介護する側のストレスも少しは少なくなるかも。

そんな初出勤体験だったので、次は普通のクリニックを選ぼうと思い、2回目は常に募集が出ている状況から、明らかに働きにくそうな匂いのするクリニックと日が合ったので、思い切って1時間の通勤時間をかけて行って来ました。

案の定、めっちゃ変わった感じのドクターでした(-_-;)

派遣会社を紹介してくれた助産師さんにその事を言ったら、「ああ、知ってる~、先生がかなり癖があるって聞いてるとこやろ~」

って、そんな噂があったのね。

その通りの所でした。。。

でも、仕事的にはめちゃくちゃ大変な事は無い感じ。

片道1時間かかるって言うのがネックだけど、そのくせある先生に12年のブランクを超えて、ちょっと気に入られた感じ。。。。(-_-;)

そのクリニックの月曜日の募集には、クオカード1000円分が特典で付いた募集になってました。

てな訳で、午前だけでなく午後診も1日にビッチリこの癖あるドクターと関わってくる事になりました。

でも、何故か、楽勝な仕事のケアセンターよりもクリニックの方が割り切って仕事しやすいのです。。。

OSHOの講和「結婚して自由であることは可能か?」

私が結婚に取り組む日々を、応援してくれるような講和だわ~。
現実に向き合う上で、私の支えになります。ありがとうOSHO。
そして、この講和を提供してくれたmuditoに感謝します。
最近アップしているOSHOの講和は、全てmuditoの日記からの転記です。
<OSHOの講話より> 

質問:結婚して、同時に自由であることは可能ですか?

それは難しい。しかし不可能ではない。ただ少し理解が必要だ。

2,3の基本的な真理が認識されなければならない。
第1に、誰も他人の為に生まれてはいないということ。
第2に、誰も人はこのようにあるべきだというあなたの理想を満たす為に、ここにいるのではないということ。
第3に、あなたは自分自身の愛の主人(マスター)であり、自分の望む限りを与えることが出来るが、誰も奴隷ではないのだから、相手から愛を要求することは出来ない、ということ。 

もしこれらの単純な事実を理解したら、その時には、あなた方が結婚しているか結婚していないかは問題ではない。あなた方は一緒にいられる・・・互いの空間を許し合い、互いの独自性を決して妨害せずに。

実際、結婚は時代遅れの制度だ。そもそも、どんな制度のもとで生きることもよくない。どんな制度も破壊的だ。結婚は、何百万という人々の幸せのほとんど全ての可能性を破壊して来た・・・それも、全てつまらないことの為に。そもそも結婚・・結婚のまさにその儀式は、いんちきだ。

もしあなたが結婚を気楽に受け取れば、あなたは自由であり得る。もしあなたがそれを深刻に受け取れば、自由は不可能だ。結婚をまさにゲームのように受け止めなさい・・それはまさしくゲームだ。

それは、あなたが生の舞台上で演じる役割だ。だがそれは存在に属したり、あるいは何らかの現実性を有する何かではない・・・それは虚構だというユーモアのセンスを少し持ちなさい。しかし人々は非常に愚かだから、虚構を現実として受け取り出しさえする。 

私は、人々が目に涙を浮かべて小説を読むのを見たことがある。小説ではものごとはとても悲劇的に進行するからだ。映画館で照明を消すのはとてもいい仕掛けだ。誰もが映画を楽しみ、笑い、泣き、悲しみ、幸せになれる。もし照明があれば、それは少し難しくなる・・・他人は何と思うだろう?と。それでいて彼らは、スクリーンには何もなく誰もいないことを完璧によく知っている。それは単に投影された絵にすぎない。しかし、彼らはそれをすっかり忘れてしまう。

そして同じことが私達の生で起こっている。単純にユーモアとして受け取るべき多くのことを、私達はとても深刻に取っている。そしてその深刻さから、私達の問題が始まる。 

そもそも、なぜあなたは結婚すべきなのかね?あなたは誰かを愛する、誰かと暮らす・・・  それはあなたの基本的な権利の一部だ。あなたは誰かと暮らせる、あなたは誰かを愛せるのだ。

結婚は天国で起こる何かではない。それはここで起こる。ずる賢い聖職者を通して・・・。しかし、もしあなたが社会の一員としてゲームに加わりたくて、独立し、他の人から遠ざかっていたくないなら、あなたの妻やあなたの夫に、この結婚はただのゲームだということを明確にしなさい。 

「これを深刻に受け取らないでください。私は結婚する前と同じように独立しているでしょうし、あなたもまた結婚する前と同じように独立しているでしょう。私もあなたの生を邪魔しませんし、あなたも私の生を邪魔しないように。私達は2人の友人として、喜びを分かち合い、自由を分かち合いながら共に生きて行きましょう・・・でも、お互いに負担にならないようにしながら。そして春が去り、ハネムーンが終わったと感じた時はいつでも、振りをし続けるのではなく、私達はとても愛し合ったとお互いに言えるほど誠実でいましょう・・・そうすれば、いつまでもお互いに感謝していられるし、愛の日々は私達の思い出の中に、私達の夢の中に、素晴らしいものとして残るでしょう・・・

でも、春は終わりました。悲しいけれど、私達の道は別れるべきところに来ました。もう、一緒に暮らすのは愛の徴ではないからです。もし私があなたを愛しているなら、私の愛があなたにとって苦痛になったのを知った時、私はあなたのもとを去るでしょう。もしあなたが私を愛しているなら、あなたの愛が私に拘束をもたらすのを知った時、あなたは私のもとを去るでしょう」

愛は生においてもっとも高い価値を持つ。それは愚かな儀式に貶(おとし)められるべきではない。そして、愛と自由は共に歩む・・・あなたはひとつを選んで、もう一方を残すことは出来ない。

自由を知っている人は愛に満ちている。そして愛を知っている人は、いつでも喜んで自由を与える。もしあなたが、自分の愛している人に自由を与えられないなら、いったいあなたは誰に自由を与えられるのかね?自由を与えることは、信頼すること以外の何ものでもない。 

自由は愛の表現だ。だから、あなたが結婚しているかどうかにかかわらず、いいかね、全ての結婚は偽物だ・・・社会的な都合のよさにすぎない。結婚の目的は互いに自分達を閉じ込め、自分達を束縛することではない。

その目的は、あなた方が互いに成長するのを助け合うことだ。しかし、成長には自由が必要だ。そして過去においては、全ての文化が、自由がなければ愛は死ぬことを忘れてしまっている。 

OSHO:The Rebellious Spirit、#8より (日本語版「ニュー・ウーマン誕生」めるくまーる社)

関係性へのOSHOの講和2

また素晴らしく、私をサポートしてくれる講話に前回とは別の友人の紹介から出会った。

『一緒にいて幸せを感じる最初の時期を通過する時、何が起こってもこの第2の時期も2人で通過することを決意しておきなさい。ひとつ覚えておくべきことがある。2人が別れるとしても、否定的な気分の時に別れてはならない。再びハネムーンが訪れた時に別れなさい。それを重点に置いて決めておきなさい。

そうすれば、これはあなたの実存に対する意識的な作業・・意図的な作業になるだろう。幸せな時に幸せになるのは、実に簡単だ。逆境の時に、真のワークが始まる。

そのような時も、たとえ幸せではないにしても、少なくとも冷静で沈着でいることが出来れば、嵐に直面しながらも動じないような、新しい幸せの質が沸き上がるのが分かるだろう。そして確かに、この種の幸せはありきたりのハネムーン型の 幸せよりも深い。ハネムーン型の幸せは非常に浅い。

だからある日、あなた方が別れることを決めた時は、幸せを感じてハネムーンが始まるまで待つことを決意しておきなさい。その時は別れてもいい。それに、そのような地点は必ずやって来る。それは車輪だ・・それは必ずやって来る。その地点がやって来ると、もうひとつの状態が再びやって来る。

しかも今度はさらに深い段階、さらに高いレベルで訪れる。その時、あなたはあることを理解しているだろう・・車輪が下がって、あなたが不幸せになるたびに、あなたは必ず新しい段階、あなたの実存のさらに深い層に入っているということを。だから、あなたは待つことが出来る。車輪は再び上がって来る。

そして今度はさらに高いエクスタシーになる。実はそこには7つの層があり、7つのハネムーンがあり、そして各ハネムーンに対して合計7つの地獄がある。この7つの層がある為に、インドでは結婚の時にカップルが結婚する時に、2人は火の周りを7回廻る儀式を行うのだ。それは非常に象徴的で心理的だ。

カップルがこの7つの層を全て通過する時、真の結婚が起こる・・それ以前ではない。西洋は結婚とは何かをまだ知らない。結婚とは、あのような一時的なものではない・・それが根付くまでには時間がかかるのだ。2人が・・2つの意識が互いに融け合うことは、世の中でもっとも偉大な化学変化だ。

相手と出会うこと、同じリズムで出会うこと、深い内なる調和の中で出会うのは、容易なことではない。 だから、最初のハネムーンに大した意味はない。第2のものは、それよりさらに高い。第3のものは、それよりもさらに高い。だが、それぞれのハネムーンの間には、大きな地獄が待っている。

何も心配する必要はない・・ただ、その時期を通過しなさい・・それは過ぎて行く。ふむ、いいかな? OSHO – The Buddha Disease』

やはり、そうですよね、OSHO...

そう思えば、毎日が祝福の時になるんだな~。

初めてのお出かけ

今日は、ナオちゃんが生まれてから、初めてお友達のAちゃんと2人でお出かけをしました。

ワークショップなど、ちょっと仕事の一環的な行事では、2,3回アマラナにナオちゃんを預けて出かけた事はあったのですが、遊びに行くのはこれが初めて。

もしかしたら、結婚してから初めてかも。

いつもは、もう一体となってナオちゃんと共に24時間行動を共にしているので、初めは、本当に自由にしていいのか、ちょっと戸惑ったけど、同時に久し振りに自由に動ける事に興奮して、電車に一人で乗ってる事にすら新鮮!

ランチは、「普段子連れで行けないお店にしよ~」と言うのをテーマに選んで、パスタをデザート付きで思いっきりおしゃべりしながら、自分の食べる事だけ考えて食べました~。

今日の初単身でのお出かけの目的は、映画「SEX AND THE CITY 2」を見ること!

同じ育児サークルの友達で、私がアメリカTVドラマ好きと言う事をしって、彼女が勧めてくれたのが、このアメリカTVドラマでした。

調度、Gyaoで無料でこのドラマが見れたので、彼女の教えどおり、シーズン1と2の、あまり面白さを感じないシーズンを乗り越え、シーズン3か4ぐらいから面白くなってくる所まで見たら、後は最後まで一気に見まくりました。

で、その後に彼女が、既に映画化されていた「SEX AND THE CITY」のDVDを貸してくれました。

それは、いかにも映画の為のストーリーって感じる所もあって、「やっぱドラマの方が面白いな~」って言う印象でした。

で、私にとって今回の一番の目的は、初めて単身で遊ぶって言う事だったので、映画がいまいちでもAちゃんと遊べるだけで満足だし、記念日になる日でした。

でも、でも、予想をはるかに超えて、かなり満足する内容どころか、大興奮できる内容だった~~。。。。(見て欲しいから、詳しい内容は書きませんよ)

その内容のエッセンスは、「全ての立場の女性(勿論、世間にはもっと多様な立場の女性がいるけど)が満足する内容にしあがっていた事」でした。

子供がいる人も、いない人も、結婚してる人も独身女性も、子供を作らない夫婦も!仕事をしてる人も、して無い人も!性にオープンな女性も、女性が肌を見せられないアラブの女性も!ゲイのカップルも!

それぞれが、それぞれの人生!自分達で作っていける!

まあ、内容も充実してたけど、更に私を興奮させたのは、メインの舞台が「アラブ」だったこと。

その場所は、「アブダビ」

大好きな「砂漠」に、大好きな「アラビックミュージック」そして、4人のゴージャスな衣装に水タバコやベリーダンス。

出稼ぎに来ている、インド人男性まで登場していた。

アブダビでのカラオケシーンでの「I AM WOMEN」も良かった~。

このドラマは、4人の衣装もいつも注目されていたらしいけど、私は今回初めて、衣装にも注目した。ステキ~~。

やっぱ、ドラマから見た方が、今までの歴史を思いながら見れるので良いと思う。でも、多くの人に見て欲しいな~。

サマンサ、最高~!!

アルコールを2人共買って、「飲みながら映画を楽しもう~!」と張り切ったのに、私は飲む事も忘れて、時々涙を流しながら身入ってしまった。。。

その後、Aちゃん行き付けの「通販生活」のSHOPと、美味しいパスタにホールトマトなど等が安く買えるお店にAちゃんに連れてってもらって、映画の興奮が有り過ぎて、冷静に買い物出来なかった~。

今度、もう一回、ゆっくり行こ~。

夕食時間前を目指してお家に帰ったのだけど、今回は友人達がいてくれた事もあって、アマラナも良い感じで、気分良く遊んで帰って来た私を迎えてくれました。。。。(ホッ!!)

ナオちゃんは勿論、「ママ~」と走って来て、ビッグハグで再会の喜びを2人分かち合いました(^_-)-☆

「SEX AND THE CITY 2」に興奮して、友人含めて皆、喜んでくれたのも嬉しかったな~。

我が家にお泊り中のカップルが、今夜は大阪デートに行くと聞いて、更に映画の影響から「ステキ~!2人でデート楽しんで~!」とまるで酔っ払いの様にLOVEモード大歓迎の人になってしまって、目の前にいる人の周りにキラキラの光が本当に見えて、世界中の恋人達を愛する人になってました。。。。

夕食は、カップルとは別に家に来ていたお友達と一緒に、めっちゃ美味しい天ぷらやさんに行きました。

あ~、幸せな初めてのお出かけDAYでした~~。。。

A ちゃんありがと~。楽しかった~。

また一緒に遊ぼうね~♡ LOVE

オーストラリア人シンガー・ソングライターのヘレン・レディが歌い、ジャクリーン・ビセット主演の映画「Stand Up And Be Counted」の主題歌

I am woman, hear me roar
In numbers too big to ignore
And I know too much to go back an’ pretend
‘Cause I’ve heard it all before
And I’ve been down there on the floor
No one’s ever gonna keep me down again

私は女
大きな声で言うから聞いて
私達は無視できないほどの大きな数になった
よくわかってしまったから、
昔に戻ったり、知らない振りをすることはできない
そうもう全部聞いて知ってしまったの
私はずっとフロアに降りていたけど
もう二度と私をフロアにとどめておくことはできない

*roar 大声を出す
*in numbers  大勢で
*down there on the floor > (雰囲気ではわかるが、今ひとつ意味がつかめない)

Oh yes, I am wise
But it’s wisdom born of pain
Yes, I’ve paid the price
But look how much I gained
If I have to
I can do anything
I am strong (strong)
I am invincible (invincible)
I am woman

そう、私には智恵がある
苦しみから生まれた智恵がある
多くの犠牲を払ったけど
こんなに多くの価値あるものを得た
もしそうしなければならないのなら
私は何でもできる
私は今や強い
私の信念は揺るがない
私は女なのだから

*wise 賢い, 分別のある
*wisdom 知恵, 賢明
*invincible 征服できない, (信条などが)揺るぎない

You can bend but never break me
‘Cause it only serves to make me
More determined to achieve my final goal
And I come back even stronger
Not a novice any longer
‘Cause you’ve deepened the conviction in my soul

私を屈服させても
押しつぶすことはできない
だって最後のゴールを目指す
私の決意をいっそう固くするだけだから
私はさらに強くなって戻ってくる
もはや私は初心者ではない
だって、私の魂のなかにある信念が
よりいっそう深まったのだから

*bend 曲げる; 屈服させる
*determined 決心した ; 決然たる.
*achieve 達成する
*novice 【カトリック】見習い僧[尼]; 初心[未熟]者
*deepen 深める,深まる
*conviction 確信, 信念

Oh, yes, I am wise
But it’s wisdom born of pain
Yes, I’ve paid the price
But look how much I gained
If I have to
I can face anything
I am strong (strong)
I am invincible (invincible)
I am woman

そう、私には智恵がある
苦しみから生まれた智恵がある
多くの犠牲を払ったけど
こんなに多くの価値あるものを得た
もしそうしなければならないのなら
私は何にでも立ち向かう
私は今や強い
私の信念は揺るがない
私は女なのだから

I am woman watch me grow
See me standing toe to toe
As I spread my lovin’ arms across the land
But I’m still an embryo
With a long, long way to go
Until I make my brother understand

わたしは女
成長していくのを見て
互いに力をあわせて立っているのを見て
国じゅう至るところに
愛を込めて手を差し伸べる
でも私はまだ生まれたばかり
兄弟たちに理解してもらうための
道のりはまだまだ長くて遠い

*toe to toe 互いに向き合って, 接近して
*embryo 胎児; 萠芽(ほうが)

Oh, yes, I am wise
But it’s wisdom born of pain
Yes, I’ve paid the price
But look how much I gained
If I have to
I can face anything
I am strong (strong)
I am invincible (invincible)
I am woman

そう、私には智恵がある
苦しみから生まれた智恵がある
多くの犠牲を払ったけど
こんなに多くの価値あるものを得た
もしそうしなければならないのなら
私は何にでも立ち向かう
私は今や強い
私の信念は揺るがない
私は女なのだから

I am woman
I am invincible
I am strong
I am woman

私は女
私は今や強い
私の信念は揺るがない
私は女なのだから

結婚や子育てに関するOSHOの講和

結婚前は、結婚や子供を持つ事に否定的な情報が、何気にサニヤシン界から伝わって来ていた。

だが、世界が変わると、自分の周りにやってくる情報も一変する。

結婚後、タントラの探求を意識しながら生活していたら、子供を身ごもった。しかし、妊娠がはっきりと分かった時、初めにやってきたものは、結婚や妊娠に対しての否定的な意見や嫉妬の嵐とそれらに巻き込まれて自分を失うと言う状況だった。

その中での生活は、胎教に最も悪いと思われる精神状態と身体的緊張の日々だった。

子供がお腹の中で体験する事が、どれだけその後の人生に影響するかを私自身が身をもって体験し、理解していた事もあり、やはり周囲の事よりも、この小さな命を守る事が最優先だと思い、感情的なことを脇に置き、その時の看護学校の先生の仕事を急遽辞めた。

しかし、仕事を辞めても、精神的に追い詰められたような感覚は持続した為に、日本にいては駄目だと思い、インドへアマラナと共に移動した。

インドのプーナでの生活は、始まりから、友人がサポートを快く引き受けてくれくれた為に、妊婦で英語も話せない状況でも、快適な生活がスタートできた。

そして、日本での体験とは逆に、妊娠を喜んでくれるサニヤシン達が沢山いた。それと共に、OSHOが妊婦や結婚についてポジティブな事として語っている講和の話などが沢山やって来た。

インドでやっと私はくつろぎを手に入れる事が出来た。

妊娠中のインド生活とそこで出会った沢山の愛のある人達のお陰で、お腹の中の子供と共にいるスペースと素晴らしさを感じる事の出来る私となれた。

結婚を決断してから、4年弱。妊娠し、インドで癒されてから3年が過ぎ、今では結婚生活と育児の2つの視点から自己探求をする毎日。

自分一人での探求ではないから、やはり思うように、理想的には事が進まない事だらけの毎日である。

そんな中、サニヤシンとしても結婚生活も育児でも先輩である友人が、忘れた頃にと言う間隔で、私の子育て生活を思ってのメールをくれる。

私の子育ての中では、助けを気軽に求められる人が近くにはいない事もあり、孤独感の中での育児生活となる事も頻回にある。

そんな状況の生活の中で、年に会うか会わないかにも関わらず、忘れた頃に気遣いのメールを送ってくれる事は、本当に愛を感じるし、彼に対して感謝の気持ちでいっぱいになる。

その彼が、先日まさに私が望む結婚子育て生活をサポートしてくれる様な、OSHOの講和を携帯にメールしてくれた。

~1通目~

『母親は、子供がより多くの人を愛するように仕向けてあげることだ。子供にはこう言いなさい。「愛することは無常の喜びなんだよ。だから愛していきなさい。愛すれば愛するほど、あなたは成長する。」

より多くを愛せる人間はより豊かになる。私達がみな貧しいのは愛せないからだ。もしあなたがより多くの人を愛すれば、誰をも愛せるようになる。もしあなたが一人の人だけを愛するなら 最後にはその一人をも愛せなくなる。あなたの愛する能力はあまりに狭まり 凍り始めるからだ。

みんなどこからか愛をつかもうとしている。しかし愛はつかめるようなものではない。ただ与えることができるだけだ。もしあなたが愛を与えるなら生は千倍にしてその愛を返してくれる。

しかし見返りを考えてはいけない。子供が愛情深くあるように導くあらゆる努力が避けられてはならない。

私が考える限り、多くの人を愛せる人間は愛だけで結婚することはないだろう。

どうか私の言うことを理解してほしい。我々は愛ゆえに、全ての人に結婚を強要する。あなた方は結婚という枠の外で人を愛せないからだ。我々は不必要に愛と結婚を一つに結びつけることを強要した。

結婚とはもっと深いもののために存在する。

親密さのため、一体感のため、しかし 愛に飢えたこの社会ゆえに 我々はロマンチックな愛から結婚に落ちる。もしあなたが愛のために誰かと結婚するなら失望するだろうーすぐに楽しさは消えさり 新鮮さは消え失せ、退屈になる。

結婚は深い友情、深い親密さのためのものだ。

自分一人では進んで行けない多くの事柄がある。自分が成長するにしても、反応してくれる人間、自分自身を完全に開けるほどに親密な人間が必要になる。

結婚は深いスピリチュアルな共感だ。

我々の結婚は性的な取り決めか 刹那のロマンチックな愛かのどちらかだ。実際、ロマンチックな愛は病気だ。というのも、あなたは多くの人を愛せないから その愛する力を蓄積し続けていく。すると あなたはその愛で溢れ出す。そして いつであれ相手が見つかれば、または機会があれば、その溢れ出る愛が投影される。だから 平凡な女性が天使のようになり、平凡な男性が聖なる存在に見える。

しかしその洪水が過ぎ去ると、あなたは普通の状態に戻り、自分が騙されていたことがわかる。このロマンチックな狂気は 我々の独占愛的なトレーニングから生み出されている。

真に健全な社会では ロマンスは存在しないだろう。愛は存在するがロマンスは存在しない。そしてもしロマンスが存在しないとすれば、結婚はより深いレベルへ進み、失望するものでは決してないだろう。

愛する能力は多くの人にむけられるべきだ。もちろん、あなたが愛せない人も存在する。そういう時、そういう人達を愛そうと自分を強制しないことだ。( 和尚ー究極の錬金術より)』

~2通目~

『子供はポジティブにトレーニングされねばならない。ポジティブさの強調が、あらゆる物事においてなければならない。その時にのみ子供は真に成長し、個人となれる。

だから マインドの肯定性を引き出すがいい。たとえ否定的なものがあったとしても 常にその中に肯定的なものを見ようとするーそこには肯定的なものがきっとある。

例えば〔この男は嘘をつくからいい人ではない〕…しかしたとえ彼が嘘をつくとしても ただの嘘つきではない。彼は嘘つき以上の存在だ。なぜその人の素晴らしい部分を見ないのか?

もし子供が、否定的なものの中にさえ肯定的なものを見れるようになれば、あなたは子供に何かを与えたのだ。彼は幸せに生きていくだろう。

もしあなたが彼に否定的なマインドを与えれば、彼はあらゆる肯定的なものの中に否定的なものを見い出すようになる。彼は生涯 地獄の中で生きていくだろう。

天国とはポジティブな世界に生きることであり 地獄とはネガティブな世界に生きることだ。   和尚』

もう直ぐ、結婚4年目を迎える。

生活状況も、実際に変化もあり、過渡期にあると思う。

このタイミングで、このメールは、まさにOSHOからのサポートである。

今度彼に会ったら、勿論お礼を言うが、彼は自分がしたいからしてくれているのだろうけど、その行為がどれだけ私をサポートしてくれているか。。どんな言葉を使えば伝わるのだろうか。。。。

ありがとう。。。。♡

私が結婚を決断した理由

生まれからずっと結婚制度を否定して人生を生きてきたのに、2006年8月24日夜、突然、意識が180度変化した。

パートナーのアマラナは、出会って全く付き合いも無く、完全に友達関係の状況の中、いきなり「結婚して欲しい」と言い、私と結婚したい理由を話し出した。

私は、特に驚く事も無く、「サニヤシンなのに結婚したいなんて変わってるな~。未だ若いから、もしかしたら結婚に夢を抱いているのかも。」と思いながら、その理由を普通に聞いていた。

そして、アマラナが本気で人生を変えたいと言う真摯な思いは友達としてしっかりと受け止めた後、私が結婚に興味が持てない理由を伝えた。

その後しばらく時が過ぎ、色々あって、「まさか!アマラナと付き合うなんて!」って事が起こった。

付き合いだしてからもアマラナは結婚の言葉を時々出していたが、私はそれは軽くスルーし、私が関係性に求めるものの話に切り替えていた。

私が求めるものとは、タントラ的なSEXが何よりも大切だと言う事。

この年のタントラのエクササイズで、実際の関係性の中での体験と同じような体験が起こり、更にフィードバック時にパートナーから元彼と同じセリフを聞いた事に私は驚き、ラダに質問するしか無いという状況となった。

ラダは、「それは、どちらかと言うと彼の問題であり、男女の中で必ず起こる問題でもある。私もその事に対する明確な答えを未だにもっていない。ただ、次の彼氏は、ここにいる人の中から選びなさい」と言われた。(短くまとめると)

私は、まさにその日同じ会場にいる男性とは理解せずに、「タントラをシェア出来る彼氏を次は選びなさいって事に違いない」と思っていた。

で、アマラナにタントラをシェアし、タントラを理解する男性かどうかを確かめる事が一番の任務となっていた。

で、まあ、割とタントラの話はいつも、よく聞いてくれるし理解も示してくれるので、第1段階は突破出来る人かもしれないとおもいだしていた。

私達はその頃、ランドマークと言う自己啓発系の会社のワークに通っていて、アマラナとの距離が縮まったのもそこで時間の共有があったからだった。

ある日、ランドマークのクラスの中で「まがいもの(って言う表現だったかは不明)の会話が始まる『枕詞』があるので、どういったものか皆で上げて行こう」と言う日があった。

『枕詞』とは、例えば「またか!」・「やっぱり」・「どうせ」等など、相手の話を聞きながら、自分の思いをめぐらせる時に初めに頭に付ける言葉の事である。枕詞となるワードは山の様に沢山ある。

それらの『枕詞』が付く時は、もうそのコミュニケーションは新しいものではなく、ただ過去が反復された発展性の無い会話が始まるのである。

つまり、枕詞は、コミュニケーションの無い会話が始まるゴングの様なもの。

この作業は日常のコニュニケーションを見直すにはとても面白いものだった。

そして、あの、8月24日の夜、アマラナが「結婚」について話し出した、その瞬間。話の内容を聞くよりも早く私の頭の中でこんな声が聞こえて来た。

「またか!」「また結婚の話か」

その声に、私は驚いた。

「またか」の言葉の後に、いつもの「結婚がどれだけ無意味なものか」について話す為の身構えまでしてる自分を感じた。

「この枕詞が付くって事は、これ程自信をもって語って来た結婚否定論にも関わらず、発展性の無い会話の一部になるではないか」

「エッ!今まであまりに正論と思い込んできたので疑う事すらなかったけれど、もしかしたら、この結婚否定論自体が、私の条件付けから来るものかもしれない」

「としたら、結婚否定と言う中にいる事自体自分の小さな殻の中にいる事になる。」

OSHOは、『サニヤシンであるならば、安心や安全を求めてはいけない。いつも綱渡りをしているかのような道を行きなさい』と言っており、私はその様に生きたいと常に願っている。」

「確かに、今のシングルライフは、お金の心配は無いし、関係性もボーイフレンドは必要だけど、関係性が終わったら別れて次へ行けば良いという気楽さの中にある。瞑想やタントラにセレブレーションなど、やりたい事も沢山あって友達もいて、幸せも感じていて、はっきり言って、『安全だし安心』もある。」

「だが、結婚制度の中に自分の身を置く事は、『大きな危険』であり『安心』も無い。」

「OSHOの弟子であるならば、危険な道の選択をするのが今するべき選択かもしれない」

「そして、何よりタントラで得た私の結論!

『相手を変えた所で、結局は自分の中にある問題が出てくる。相手が問題では無いし、問題を未処理のまま次の男性へ移ったら、また一から新たな男性と同じ問題に向き合う事となるだけだ。』

『相手は誰でも同じ』

『縁のある人としか付き合いたくても付き合えない。だから、理想をもって相手を選んで付き合うなんて事は無理。選んでいる様で人は相手を選んでは無く、必然によりくっついているだけかも』ということ」

「って事は、今一緒にいるアマラナともとことん向き合うしかないし、問題が出てきても、それも私の人生に必要な事だから、結婚しようがしまいが、同じ事だ」

「駄目だったら、いつでも紙を書いて離婚すれば済む話。気軽にチャレンジしてみよう」

「そして、もし、生まれてから否定してきた外側にある結婚の枠の中でも、今と変わらぬ自由で人生を楽しむDHYANIで有れたならば、その方が私にとっては嬉しい事だし、自分の枠が広がると言うものだ」

「そして、『誰もが失敗している結婚』という肩書きを塗り替えるような、お互いが相手を尊重し、束縛や駆け引きや、しがみつきや依存など無い関係性、更にお互いに個人でいるよりもより相乗効果で成長し合える関係性をつくり、一般的な結婚問題を打破し、『結婚=人生終わり』から「結婚=セレブレーション』に変える事が出来たら、それこそタントラワークであり、結婚と言う外側の枠を超える事がで来たら、人類にも貢献出来た事になるではないか」

「そして何より、自分自身の本当の意味での過去からの自由がやってくる」

なんて事が一瞬にして頭を駆け巡り、「分かった、じゃあ、今から市役所行って、結婚する?」

「24時間いつでも結婚は出来るんやで」

と、アマラナに伝えた。

それで、じゃあ行こうかとなった時、急に「どうせそんな今までの考えから180度違う行動をするんだから」と思い、数秘学で、日にちの計算をした。

すると、2日後であれば、888と「8」が3つ並ぶ。特にどの数字が良いとか無かったから、アマラナが「お金が好き」と言っていたので、お金に関わる数字の8が並ぶなら良いかもと思い、2日後の26日に入籍した。

しかし入籍当日、いざ、結婚届を前にしたら、私の決意が急にぐらつき、「こんな簡単にゲーム感覚で否定していた結婚をしてしまっても良いのか?」と言う思いが現実を目の当たりにして押し寄せてきた。

結婚届には、保証人と言うのがいるのもその日に知ったのだが、私は、その日たまたま大阪に出てきている母親に書いてもらう事にしていたが、アマラナの知り合いが全くつかまらなかった。それで、あまり付き合いが無い知り合だけに連絡がとれ、その人の職場へ2人で行った。

すると、その友達は、自分の本籍は分からないので、嘘を書き、自分の生年月日まで、間違えて書いてしまうと言う失態ぶり。

その場にいたその人の上司が、「ちゃんとしなあかん!」とその人を注意したものの「でも、保証人は全くチェックされなくて書いてあるだけでOKやから、実際的には問題ないよ」と言ってくれた。

なんとも、私達の結婚らしい。。。

私の母親は、予定時間より、かなり遅くに私達と合流した。

お母さんにも書き込んでもらっても、どうしても私は名前を書けずにいた。

で、何でこんな事をと思いながら、全く人生で相談した事の無い父親にまで電話して、「本当に結婚とかしてしまっても良いのかな~?」って聞いてしまった。

などと渋っていたら、気が付いたら22時半を過ぎていた。

この調子では、26日入籍が出来なくなると言う状況になり、急いでお母さんを駅まで送り、私達はその時住んでいた城東区役所に急いで行った。

市役所は、勿論閉まっており、裏口の方へ移動した。

ベルを押すと、パジャマを着たおじさんが出てきた。

で、事情を言うと中へ入れてくれた。

めっちゃ不機嫌そうに、「結婚届出して!」と言われたので、「未だ、名前書いて無いんですけど」って言ったら「早く書いて!」って、更に不機嫌そうに言われたので、私は、さっきまでの迷いすら、もうする猶予も与えられずに、自分の名前を書く事になった。。。

「入籍時間、何時にする?」って聞かれたので、急いで考えて、23時6分にした。夜の11時だったので、足したら「8」。

入籍時間まで決めれるなんて知らなかった。そして急いでくれモードの中焦って、正確には11時ではなくて23時だった事を、全てを終了して市役所の出口へ向かうところで気が付いたけど、もうそこまではいいか~って感じ。

とにかく、26日のうちにギリギリ入籍出来て、ちょっと縁起担ぎっぽくなってよかった、よかった。。。。。

と言いつつ、確かに、全く安全ではない、色んな意味で一般的な結婚等は全く形の違う結婚生活が、良いも悪いも含めて繰り広げられている。。。。。。。。。