OSHOの講和「愛、そして独りあること」

<OSHOの講話より>

質問:Osho,いままで、これほどまでに愛を感じ、これほどまでに自分が独りだと感じたことはありません。Osho,ありがとうございます。

【OSHOの言葉】

 これは、非常に深く理解すべきこと、非常に重要なことだ。愛はつねに単独性をもたらす。単独性はつねに愛をもたらす。ふたつはけっして分けられることはない。人は、反対だと考える。  「愛しているときに、どうやって独りになることなどできる?」  人は、孤独と単独性というふたつのことばを区別しない。だから、誤解が生まれる。

 愛しているときは、孤独ではない。それは正しい。だが、愛しているとき、あなたは独りになるほかはない――それは、さらに真実だ。

孤独は否定的な状態だ。孤独とは、あなたが相手を探し求めていることを意味する。孤独とは、あなたが暗くよどんで失望していることを意味する。孤独とは、恐怖を意味する。孤独とは、あなたが独りとり残されていることを意味する。孤独とは、誰ひとりあなたを必要としていないことを意味する。それは傷つく。孤独は傷のようなものだ。

 単独性は、花のようなものだ。辞書では、孤独と単独性は同じ意味になっている。それはまちがいだ。ふたつはまったく異なった現象だ。孤独は傷であり、癌に変性することもありえる。孤独が原因で死ぬ人は、ほかのどの病気で死ぬ人よりも多い。世界は孤独な人間であふれている。そして孤独ゆえに、その傷、虚しさ、空虚さ、否定感をなんとか埋めようとして、人はあらゆる愚かなことをつづけている。  孤独な人間は過食する。ただ、その満足感を求めて。孤独な人間は、太りはじめる。孤独な人間は、ソーマからLSDまで、あらゆるドラッグやアルコールを摂取する。自分を忘れたいからだ。孤独はあまりに醜悪で、死のように恐ろしい。だから、人はそこから逃れようとする。孤独な人は、4、5、6時間もテレビの前の椅子に座って釘づけになっている。アメリカ人は、テレビの前で目を凝らして6時間も座る。

ほかに何ができる? どこへ行く? 誰と話しをする?  コミュニケーションはやんでしまった。人びとは語り合っていない。互いに向かってことばを浴びせているだけだ。だが、互いに語りかけてはいない。人は、相手に手を差し伸べることを忘れてしまった。人びとは平行線だ。互いに近づいてはいるが、けっして出会うことはない。夫や妻、友人たち、いわゆる恋人たちでさえ、けっして出会うことのない平行線だ。互いに近づき、明日に出会うことを希望しているが、それは希望にすぎない。それは幻想にすぎない。人びとをなんとかつなぎ止めているにすぎない。  

線路を見ればよくわかる。線路は平行だ。遥か遠くで2本の線路は交わっているように見える。だが、けっして交わりはしない。そこへ実際に行ってみれば、線路は交わっていない。そこに近づくと、交点はふたたび遥か彼方に移動してしまう。あなたと見かけの交点の間の距離は同じだ。  

世界は非常に孤独だ。だから人びとは、ほんのしばらくでも孤独を忘れるために、ドラッグ、セックス、そのほかどのような娯楽にでも溺れようとする。傷は膿を出している。私たちは傷をあらゆる方法で隠そうとする――偉大な財産、大きな宮殿、大金――新しい小道具で――だが傷はなくならない。小道具は傷を覆いはしない。世界一大きな邸宅を持ったとしても、小さな小屋に住んでいた頃と同じだけ孤独だ。そこになんの変化もない。財産が内面の孤独を変えることはない。  そこで、人びとは互いにかかわりを持とうとする。だが、ともに孤独な者に関係性は不可能だ。

関係性は必要からは生まれない。関係性はあふれるエネルギーからのみ生まれる。けっして必要からではない。

ひとりが飢えていて、相手も飢えているなら、互いに相手を搾取しようとするだろう。そのような関係性は、愛でも慈愛でもなく、搾取以外のなにものでもない。それは友愛ではない。それはある種の敵意――非常に苦いが砂糖に覆われている。そして早晩、その砂糖ははげ落ちる。ハネムーンが終る頃には、砂糖がなくなってすべてが苦くなる。そのときは、すでに罠にはまっている。最初は別々に孤独だったふたりが、今度はともに孤独だ――これは前よりももっと痛む。互いに孤独な夫婦が部屋に座っているのを見るがいい。表面では一緒にいるが、奥深くでは孤独だ。夫は自分の孤独のなかで迷い、妻も自分の孤独のなかで迷っている。世界中でもっとも悲しいことは、ふたりの恋人、カップルが互いに孤独であるのを見ることだ。世界中でもっとも悲しい光景だ!  

単独性は、それとはまったくちがう。単独性は花だ。ハートに蓮華が開花する。単独性は肯定的だ。単独性は健全だ。それは自分自身になることへの喜びだ。自分自身のスペースを持つことへの喜びだ。  そうだ、愛のなかにあるとき、あなたは独りだと感じる。

単独性は美しい。単独性は至福だ。だが、愛する者たちだけがそれを感じることができる。というのは、愛だけが独りになる勇気を与え、愛だけが独りになるための状況を与えることができるからだ。愛だけが深い満足感を与えることができる。

だから、もはや相手を必要としない――独りになることができる。  愛はあなたを統合し、あなたは独りでも歓喜することができる。愛はコントラストになる。愛と単独性は同じエネルギーの両極だ。そして、それを理解するのはよいことだ。恋人たちは、互いに独りになるスペースを与え合えないことがよくあるからだ。

互いに独りになるスペースを与え合えなければ、愛は破壊される。独りになることによって、愛は新鮮なエネルギーと豊潤さをえることができるからだ。独りであるとき、エネルギーは満ちあふれるまで蓄積される。  

その流れ出るエネルギーが愛になる。そのとき、友人、恋人、誰であれ愛する人のところに行ってそれを分かち合える。あなたは、充分に分かち合うだけのエネルギーを持っている。実際、あまるほどのエネルギーだ――分かち与えるよりほかに道はない。

しかも、あなたが相手に強制しているのではない。実際は、あなたの方が相手に強制させられているのだ。雲が水を持ち切れないとき、雨を降らすほかはない。そして、雨を降らすことを許し、水を吸い、客として雨を受け取り、歓待してくれた地上に、雲は感謝するにちがいない。花が開くとき、花は香りを放出するほかはない。花は、香りをあらゆる方向に運んでくれた風に感謝するだろう。  

独りでいるときはエネルギーを蓄積することができる。エネルギーは生命だ。エネルギーは喜びだ。エネルギーは愛だ。エネルギーはダンスだ。エネルギーは祝祭だ。エネルギーがあればなんでも可能だ。それは、歌、ダンス、愛になる。そしてエネルギーは、ありあまっているときに初めてオーガズムになる。  

多くの人びとが愛を交わすが、オーガズムについてはなにも知らない。なぜなら、彼らはすでに疲れきっているからだ。愛を交わすとき、彼らは虚しい。愛を交わすとき、彼らには分かち合うエネルギーがない。愛を交わすときに満ちあふれることができない。彼らのオーガズムは、良くて性器の周辺に起こるだけだ。そのようなオーガズムは、非常に些細な、ありきたりのできごとだ。なんの霊的な意義もない。くしゃみのようなものだ。もちろん、くしゃみをした後に少しは気分も良くなるだろう。また、背中の痒いところを掻けば、良い気持ちにはちがいない。慰めになる。  

オーガズムは慰めではない。オーガズムは祝祭だ。そしてオーガズムは、相手を通して自分自身と、全体と出会うことだ。オーガズムはつねに神聖だ。あなたは、相手という扉を通して神聖なる世界に入って行く。オーガズムはつねに霊的だ。けっして性的ではない。オーガズムを性的だと見なす人びとは、まったく理解していない。彼らはセックスに関して、オーガズム的体験に関してなにも知らない。オーガズムはつねに三昧、歓喜だ。だが、人びとはわかっていない。なぜなら、あふれるエネルギーからではなく、必要から出会うからだ。  

だから、愛しているときは、独りになりたいという強い願望が生まれる。覚えておくがいい――愛においてのみ、独りになりたいという強い願望が生まれる。真の恋人たちは、相手に独りになる自由を与える。彼らはすぐにエネルギーに満ちあふれ、また出会って互いにエネルギーの雨を降らせる。独りになっていると、エネルギーを分かち合いたいという強い願望が生まれる。このリズムを見るがいい。愛しているときは独りになりたい。独りでいるときは、やがて愛したいと思うようになる。恋人たちは近づいては離れ、近づいては離れる。そこには、ある種のリズムがある。

離れるのは、愛に反しているわけではない。離れるのは、みずからの単独性をその美しさと喜びとともに取り戻すためだ。だが、自分が喜びにあふれれば、つねにそれを分かち与えたいという内的な避けがたい衝動が起こるものだ。誰ひとり喜びを抑えることはできない――そして、抑えられるような喜びにたいした価値はない。喜びはあなたよりも大きい。だから、あなたの方でそれを抑えることはできない。それは洪水だ! 

抑えることはできない。それを分かち合う人びとを探すほかはない。  仏陀にとっては、あなた方の恋愛に起こることがより高いレベルで起こっている。仏陀が光明を得たとき、彼はあまりにエネルギーと喜びに満ちあふれていた。だから、それを分かち与えなければならなかった。42年間、仏陀はみずからの喜びを分かち与えながら村々を旅した。  

これこそ、私があなた方とともに行なっていることだ。私は教師ではない。私になにも教えることはない。なにひとつ伝えることもなければ、なんの情報もない……。私は、ただみずからの存在を分かち合うためにここにいる。私はあまりに満ちあふれている。雲は水を含んで重くてしかたがない。そして、あなたに私を受け容れる用意があるなら、私があなたに感謝するだろう。  分かち与えるのは、ありあまっているからだ。光明、仏性、キリストの意識はあなたと神の橋渡しをする。そうすれば、無限のエネルギー源があなたのものになる。無尽蔵の源泉があなたのものだ。あなたは休みなく与えることができる。与えれば、さらに多くがあなたのもとにやって来る。  

単独性がその究極の頂点に到達したとき……。師とは、世界中でもっとも孤高とした存在だ。ゆえに、師は世界でもっとも愛ある者だ。仏陀やキリストほど偉大な愛する人を見つけることはできない。だが、その愛の質はあまりにちがっている。いまや、それは友愛と慈愛と共感だ。人物は消滅した。情熱はほとんど姿を消している。慈愛ははかりしれない、巨大だ、途方もない、無限だ。情熱が無限になるとき、それは慈愛だ。  

あなたの体験はすばらしい。そして、あなたはその美を理解した。だから、私に感謝の気持ちを感じたのだ。  

あなたは言う。  「今まで、これほどまでに愛を感じ、これほどまでに自分が独りだと感じたことはありません」  ふたつは同じコインの両面だ。そして、あなたは言う。  「Osho,ありがとうございます」  あなたは理解した。あなたが愛と単独性をつなげることができて私は嬉しい。ふたつを楽しむがいい。ふたつのうち、どちらかを選んではならない。どちらかを選べば、ふたつとも死滅してしまうだろう。両者がいっしょに起こるにまかせなさい。独りになりたいときは、それに入ってゆくがいい。愛が起こったときは、それに入ってゆくがいい。

独りであることは、内側に入ることであり、愛は外側に出ることだ。  単独性は息を吸うことであり、愛は息を吐くことだ。どちらかでも止めれば死んでしまう。息をためておくことはできない。息を吐いたままでいることもできない。呼吸はトータルなプロセスだ。そしてトータルなプロセスのなかでは、吸気は呼気と同じくらいに大切だ。愛は呼気だ。単独性は吸気だ。そして、そのようにして魂は生きてゆく。そのようにして人は魂を獲得する。ふたつを受け容れるがいい。けっして選んではならない! 選択せずにふたつを受け容れるがいい。そして呼吸が誘うところならば、どこにでも従って行くがいい。単独性は内面であり、愛は外面だ。  

カール・グスタフ・ユングは、ふたつの用語を世に広めた。ユングは人間を基本的にふたつに分類した。内向的人間と外向的人間だ。これは誤った分類法だ。人間をこのように分類できるものではない。人間はこのように仕切られるものではない。私は内向的でしかない人間に一度も会ったことがない――そのような人間はすぐに死んでしまうだろう。息を吸うことしかできないからだ。私は外向的でしかない人間に一度も会ったことがない――そのような人間もすぐに死んでしまうだろう。人間はその両方だ。

内向的よりも外向的な側面の方が強いことはありえる。そして、その逆もしかりだ。それによって、不均衡が生まれる。人は同時にその両方でなければならない。バランスが取れていなければならない。  

私のサニヤシンは、外向的な内向的人間、内向的な外向的人間の両方でなければならない。これは理解すべきもっとも重要なことのひとつだ。過去に僧侶たちは、ただ内向的でなければならなかった。彼らは別世界の人間と呼ばれた。世間を放棄して僧院へ、山奥へ、砂漠へ赴く人びとだ。彼らは、内向的な人間になることが神とつながる唯一の道だと結論づけた。あたかも神が内面だけに存在し、外面には存在しないかのように考えていた。  そして他方、世俗的な人びとは外向的だ。外向的な人びとは、内向的な側面、瞑想、祈りとは、まったくかかわりがないと思っている。興味は金、権力、名声、人びと、群衆――世間にある。けっして内側を見ることはない。これは、非常に分裂症的な状況だ。  

私は、自分のサニヤシンたちに分裂症的にではなく、全体になってもらいたい。世間にあり、しかも世間に属さない。外面と内面の間を、できるかぎりスムーズに簡単に移動するがいい。家から庭に出るように……、家のなかが冷えすぎているから外に出る。外はまぶしいくらいに明るい。すぐに暖かくなる。すぐに汗が出はじめる。そして、涼しさと日影を求めて家に入る。ちょうど、家のなかと外を移動するように、内と外を移動するがいい――両者はともにあなたのものだ。  

古いサニヤシン、古い僧侶たちは内面だけを重視した。彼らは外面を否定した。私のメッセージは、なにも否定してはならない――すべてがあなたに属しているということだ。  私はあなたに全宇宙を与えよう。内面と外面の両方だ。私はあなたに内向的になってもらいたくはない。なぜなら、外向的なものに敵対して内向的になった人びとは、病気に、病的、休眠、沈滞、閉鎖、隔絶状態になり、根を失ってしまったからだ。彼らは窓のない存在を生きはじめた。彼らは不必要な惨めさのなかで生きはじめた。彼らはけっして単独性とはなにかを知ることはない。単独性は、愛なしには知りえないからだ――彼らが知っているのは孤独だけだ。そして、孤独は非健康的だ。孤独は病気だ。  そして外面のみに生き、内面についてまったく考慮しない人びとは、もう一方の対極だ。彼らは愛について少しは知っているが、その愛は欲望以外のなにものでもない――なぜなら、独りであることが同時に起こらないかぎり、愛は起こらないからだ。彼らの愛は、欲望につけられた美しい名前だ。彼らには相手が必要であり、相手を搾取し、相手を所有する。相手を所有するとき、あなたもまた相手に所有されるのだ。人びとは奴隷に、物になってしまう。もはや人間ではない。

 内面を知らずに、外面のみで生きる人は貧しい、非常に貧しい――内なる宝に気づいていない。そして内面のみに生きる人もまた貧しい。けっして存在の美しさに気づかないからだ。星たち、砂浜、太陽、樹々、鳥たち……。  内面と外面はふたつのものではない。内面は外面の内面であり、外面は内面の外面だ。サニヤシンはその両方であるべきだ。私はカール・グスタフ・ユングが分類できない、彼が内向的とも外向的とも呼べない新人類を創造したい。ユングはそのような人間に対して新しい用語を作らなければならないだろう。なぜなら、新人類は全体であり、その両方だからだ。彼は魂であるのと同じだけ肉体だ。彼は唯心論者であると同時に唯物論者だ。彼はあの世界に属するのと同じだけこの世界にも属している。マインドには分裂も選択もない。  

なにか、すばらしいことがあなたに起こった――その方向にもっと進んでゆくがいい。道を逸れてはならない。道を逸れるのは簡単なことだ。古い習慣、古い概念が、私たちをつねに古いパターンに引き戻しつづける。マインドは言うだろう。  「これは単独性ではない。孤独だ」 マインドは、それを孤独と呼んで破壊しようとする。気をつけなさい。マインドに気をつけるがいい!――マインドよりも手ごわい敵はない。  私は「マインド」と言って過去を指している。過去に死ぬがいい。そして、新しいことを学びなさい。あなたは非常に価値あることに出会った。まったく新しくて新鮮なことに……。愛は単独性をもたらす。単独性は愛をもたらす。それもまた起こる。  

そして、あなたは言う。  「いままで、これほどまでに愛を感じ、これほどまでに自分が独りだと感じたことはありません」  私は、すべてのサニヤシンがあなたのように、単独性と愛を感じることを望んでいる。そして、両者の間にいかなる衝突も作り出さないことだ。このふたつによって交響曲を奏でるがいい。そうすれば、非常に貴重な豊さを手に入れるだろう。

 Osho, The Fish in the Sea is Not Thirsty , #2 より抜粋

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